使徒ヨハネが、「神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない」と語るのは、読者たちに神の光の中を歩むように勧めるためであった。(1:5)キリストの救いに与った者も、絶えず神の光に照らされ、内なる罪を示されつつ生きること、それによって一層罪の赦しを喜び、感謝して歩むためであった。「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての罪から私たちをきよめてくださいます。」(1:9)これはキリストを信じる信仰の第一歩であるだけでなく、その後の日々の生活の中で、繰り返し経験すべきことなのある。
1、ヨハネは、読者たちに「私の子どもたち」と語りかけ、「私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです」と説明した。(1節前半)多くの困難を経験し、教会の中に混乱があった時代の聖徒たちに「私の子どもたち」と呼びかけたのは、晩年を迎えたヨハネが、聖徒たちが苦悩するのを見守りつつ、父なる神の見守りを心に留めたことが考えられる。ヨハネが人々を愛し、心に掛けながら、神の子とされた自分に注がれた神の愛の豊かさを思い、読者たちにも「私の子どもたち」と呼ぶのである。
ヨハネが「私の子どもたち」に願ったことは、「罪はない」と自分を欺くことなく、また「罪を犯してはいない」と言って神を偽り者とすることなく、自分の罪を言い表し、日々に神の赦しをいただくことであった。その上で「罪を犯さないようになる」ことであった。キリストを信じる者、キリストの十字架の贖いを信じた者はもう既に罪を赦されている。けれどもこの世にある限りは、誰もが例外なく罪を犯す現実に直面する。この現実を認め、その上で罪を犯さないようになること、罪を繰り返し犯すことないように整えられること、聖くされること、これを読者たちに期待したのである。
2、罪に対する裁きからの救いという一度限りの罪の赦しは、全く確かで完全である。しかし、キリストにあって神との交わりに入れられた者も、日々の生活において罪を犯すことは認めなければならない。罪の行為であったり、思いであったり、様々な罪を犯す。これらの罪を「犯し続ける」のか「犯し続けない」のか、ある罪を習慣的に犯すのか否か、これをヨハネは問うのである。罪を離れ、神の聖さに習うこと、これこそが聖徒としての歩みであると。当時、こうした内なる葛藤を安易に退け、罪を犯しても罪はないと誇る者があり、現実に犯す罪を軽んじる人々がいたからである。
罪を犯さないようになるためには、罪を犯した時、必ずキリストを仰ぐことである。「もしだれかが罪を犯すことがあれば、私たちには、御父の前で弁護する方がいます。義なるイエス・キリストです。」(1節後半、※「もしだれかが罪を犯したなら、私たちには、御父の御前で弁護してくださる方があります。それは、義なるイエス・キリストです。」)罪を赦された者がなぜ罪を犯すのか・・・、その答えを見出せず、自己嫌悪にさえ陥ることがある。その時こそ「弁護する方=パラクレートス」を見上げるのである。傍にいて弁護し、執り成す方として主イエス・キリストが父なる神の前におられる。(※ヨハネ14:16)唯一人「義なる」方が神と人との間に立って、罪を犯した者の弁護を引き受けて下さるのである。これに優る弁護、執り成しはない。
3、「この方こそ、私たちの罪のための−−私たちの罪だけでなく、世全体のための−−なだめの供え物です。」(2節)確かに人となってこの地上を
歩まれた方、十字架で死んだ方がおられ、この方がなだめの供え物として、罪の代価としてご自分のいのちを捨てられたのである。それは信じて罪を言い表す人のためばかりか、世全体のための「なだめの供え物」であった。ヨハネは、今信じて罪を言い表す「私たち」のためだけでなく、世々に渡り、時を越えて罪を悔い改めて告白する、全世界の全人類におよぶ罪の赦しの広がりを視野に入れていた。キリストの十字架の贖いの死、身代りの死は、信じるなら誰をも妨げず罪の赦しに招くもの、神の愛とあわれみに満ちたものなのである。
ヨハネは今更ながら、十字架の目撃者として、その光景を思い出していたことであろう。彼は十二弟子の中で唯一人、十字架のイエスをすぐ近くで見上げていた。息を引き取る時も見ていたに違いない。けれども、失意を抱くばかりで、十字架の意味を悟ってはいなかった。やがて復活した主にお会いして、み言葉を説き明かされ、この方こそ「なだめの供え物」と信じたのである。神の義はいささかも歪められることなく、神の愛の業によって罪の赦しが成し遂げられた。全人類の底知れぬ罪を、神はご自分の御子の血潮を代価として支払って赦そうとされた。罪に対する神の怒りは十字架によって解けたのであった。
<結び> 主イエスの十字架に神の愛が凝縮されていることは、ヨハネが手紙で繰り返し語ることである。(3:16、4:9〜12)その愛を知り、その愛を受けて聖徒たちが生きるなら、神の愛は人々の間でも真実な愛となって表れ、互いに愛し合う交わりがそこここに生まれるに違いない。キリストの教会はそのために世に遣わされ、世に置かれている。そのような愛の証しを立てるのに、世々の教会は、そして今日私たちはその務めを果たしているか、大いに反省が迫られる。必要なことは何であろうか。私たちが一層神の愛に触れることであり、神による罪の赦しがどれ程測り知れないか、そして神に望みを置く者に確かな喜びのあることを知ることである。
究極の救いの確かさを信じるとともに、日々に「御父の前で弁護する方」がおられることを信じて歩むことである。他の人から責められようと、悪魔がそそのかそうと、私たちの歩みは揺るがない。罪を犯しても十字架を仰ぐなら、次第にその罪から遠ざけられ、やがて自分からも罪から遠ざかり、罪を犯さないように変えられる。そのような私たちの歩みがあるなら、世にあって確かな証しとして用いられる。教会が神の光の中を歩んでいることを証しすることによって、世は神の愛に触れ、神の愛の大きさやあわれみの豊かさを知るのである。キリストにある者は誰をも恐れず、世にあって堂々と生きることを許されている。義なるイエス・キリストがいつも傍にいて下さるから。この確かな守りを忘れないでいたい。(ローマ8:31以下)
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