礼拝説教要旨(2008. 2.17)    
キリストが歩まれたように          (ヨハネ第一2:3〜6)
 使徒ヨハネが手紙の読者たちに願ったこと、それは彼らが、神の光の中を歩むことであり、絶えず神の光に照らされ、内なる罪を示されつつ生きることであった。自分の罪を言い表し、十字架を仰ぐ日々を過ごすことによって、罪を犯さないようになることを願ったのである。それは読者たちが本物のクリスチャンとなるようにとの願いからであった。その思いは更に、偽りと本物の違いを、神の命令を守っているか、神のみことばを守っているか、そして、神のうちにとどまっているかを問うことによって明らかにしようとした。

1、先ずは次のように語った。「もし、私たちが神の命令を守るなら、それによって、私たちが神を知っていることがわかります。」(3節)神の命令を守っているかどうか、それによって、私たちが本当に神を知っているかどうかが明らかになる。神を知っている、神についての知識がある、聖書を知っている・・・とどれだけ誇ったとしても、神の命令、すなわち神の教えに反して生きているなら、それは本当に神を知っていることにはならない。神の教えに聞き従って歩んでいること、その人の生き方において教えが実を結んでいることが問われている。それは十戒で示された道徳的教えや、主イエスが語られた具体的な教えを実践しているかどうかによって明らかとなる。

 ヨハネは明言した。「神を知っていると言いながら、その命令を守らない者は、偽り者であり、真理はその人のうちにありません。」(4節)どんなに神を知っていると言っても、自分はクリスチャンであると公言しても、神の戒めを行っていないなら「偽り者」として退けられる。行動に表れない信仰は空しいものでしかない。(※ヤコブ2:14〜26)その人に真理があるとは到底言えないのである。けれども、しばしばそのような状況に陥り易いことは否定できないのが、世にある聖徒たちの現実である。だからこそヨハネは問うのである。神を偽り者とすることなく、また自らも偽り者になることなく生きるようにと。

2、ヨハネは同じことを問うた。「命令」を「みことば」と言い換えて、「しかし、みことばを守っている者なら、その人のうちには、確かに神の愛が全うされているのです。・・・」と。(6節)ただ神の命令や戒めを守るのに必死になるのでなく、神ご自身とキリストに従っているかどうか、そのことを問い直している。命令を表面的に守ろうとする余り、些細なことで私たち人間は自分を正そうとするより、周りの人々を正そうとする。「みことば」を神のことばの全て、御心の一切として理解するなら、「みことばを守る」とは、神ご自身に従うことそのものとなる。その時「確かに神の愛が全うされている」と言うことができる。「それによって、私たちが神のうちにいることがわかります。」(※「神の愛」は、ここでは「神への愛」「神を愛する愛」という意味となる。)

 神を愛するとは神の戒めを守ることとの教えは、聖書に一貫する大切な教えである。(5:3、ヨハネ14:15、21、23)神は人に自発的な服従を求めておられ、盲従することや忍従することを強いてはおられない。心から従うこと、神からの愛に応答することとして服従すること、そのようにして神を愛することを願っておられる。それは私たち人間の親子関係や、夫婦でも友人でも、あらゆる人間関係において大切な視点である。本当の愛は要求するものでなく、与えるものであり、神の愛をいただいた者は、その愛により真心から神に従うことが導かれ、神と人を愛する者とされる。それは思いもよらない奇蹟であり、不思議にも「私たちが神のうちにいること」、神のものとされたことが分かるのである。

3、「神のうちにいる」とは、「神のうちにとどまっている」と同じことで、主イエスがぶどうの木のたとえで教えられたことである。「わたしにとどまりなさい」、また「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、・・・」と主は言われた。(ヨハネ15:1〜12) 神のうちにいることも、神のうちにとどまることも、主イエス・キリストにとどまること、キリストに繋がって生きることに他ならない。キリストから命をいただき、キリストの愛に満たされ、力に支えられて生きること、そのように生きるように、キリストにとどまる者は整えられるのである。それゆえに、「神のうちにとどまっていると言う者は、自分でもキリストが歩まれたように歩まなければなりません」と勧められている。(6節)

 この勧めを聞く者は、キリストがどうように歩まれたかを知っていることが肝心となる。キリストがこの地上を歩まれた時、何を語り、人々にどのように近づかれたのか。何を見、何に心を動かされたのか。そして何を成し遂げるため、この地上を歩み抜かれたのであったか。キリストを信じる者は、何を見倣って歩むことが求められているのであろうか。倣うべきは全てであるが、現実には不可能と思い知らされるばかりである。しかし、不可能と尻込みすることなく、キリストの遜りとご自分の命を十字架で捨てられた自己犠牲、そしてご自分の民をこよなく愛された愛に満ちた振る舞いを心に留め、その一端でも倣うなら幸いである。また何よりも父なる神の栄光があらわされること、御心がなることを常に第一としておられたことを倣うことである。

<結び> 世々の教会、そして今日の教会、また私たち一人一人はキリストが歩まれたように歩んでいるかが問われている。この点でも悔い改めと反省が迫られるが、真実な悔い改めに基づいた新たな一歩こそ尊い。思いを新たに、確かな歩みが導かれることこそ尊く、キリストご自身が私たちをそのためにこの世で生かして下さっている。世に送り出されていることも確かである。救いの恵みに与った者は、ただ漫然と生きるのではなく、キリストが歩まれたように歩むことが期待されている。実際にキリストが歩まれたように歩む者がいることは、この世にあってどれだけ大きな喜びや慰めを生み出すことか、それは私たちの思いをはるかに越えることであろう。

 反対に、もし教会がキリストが歩まれたように歩んでいないとしたら、その悲劇は想像に難くない。現実のその悲劇がそこここに見られ、教会の分裂や堕落は歴史が示すとおりである。私たちの課題と務めは、一人一人がいかにしてキリストが歩まれたように自分も歩むかにある。キリストの歩みを知るのは聖書からである。そして聖書を読むのは礼拝をとおしてである。それは公的な礼拝と私的な礼拝により、聖書に触れ、キリストご自身を知ることによる。キリストの愛に触れ、その愛に心打たれる人が愛の人として世に送り出される。キリストの十字架にキリストの遜りを見出す人が、自分もまた遜ることを学んで人に仕えることが導かれるに違いない。キリストに倣って歩む歩みが、私たち一人一人に導かれることを心から祈り続けたいものである。
(3:16、4:11、※ピリピ2:1〜11、ペテロ第一2:21)