礼拝説教要旨(2008. 2.24)    
古くて新しい命令として          (ヨハネ第一2:7〜11)
 「神のうちにとどまっていると言う者は、自分でもキリストが歩まれたように歩まなければなりません。」(6節)ヨハネの願いは、読者たちがキリストに倣ってこの世を生きることであった。偽り者になることなく、本当にキリストに従って生きる者が、この世で増し加えられることを願っていた。そのために光の中を歩むこと、神の命令を守ること、みことばを守ること、神のうちにとどまることと、いろいろ言葉を替えて語りかけていた。そして「・・・・なければなりません」と命令口調となった。けれども新しい命令を書いているのではないと告げ、心を開いて教えを聞いて欲しいと願ったのである。(7節)

1、神の教えに聞き従うこと、命令や戒めを守ること、神のことばに忠実であること、こうしたことに細心の注意を払うと、なぜか守ることや道を踏み外さないことに心が囚われ易くなるものである。何かを守ることにのみ集中するからであろう。ヨハネはそうではないことを示そうとした。何か新しい命令ではなく、また新しい戒めでもなく、既に知らされていること、知っていること、よくよく聞いている「みことば」を思い出して欲しいと言う。「初めから持っている古い命令」、そして「みことば」とは、旧約聖書で示された教えであり、それを説き明かされた主イエス・キリストの教えを指していた。

 ヨハネが心に留めたのは、主イエスが大切な戒めとして律法を要約されたことである。「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」(マタイ22:34〜40)この二つの戒めを明らかにされた主が、最後の晩餐の席で「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13:34)と命じられた。主が語られたことは、正しく初めからの戒めで、イエスをキリストと信じて歩み始めた者は皆、初めから聞いていた教えである。その意味で「古い命令」であった。しかし今改めて、その古い命令を「新しい命令として」ヨハネは書き送ろうとしたのである。(8節)

2、主が「互いに愛し合いなさい」との戒めを弟子たちに命じられた時、確かに「新しい戒めを与えましょう」と言われた。それは人々が知らない戒めではなく、律法によって明らかにされていた。知らなかったのではなく、知ってはいても忘れていたか、守ろうとしなかったものである。常に心新たにして聞くこと、日々に心して聞き従う戒めとして「新しい」のである。この戒めを「新しい」と言明された主は、闇を照らす「まことの光」として世に来られた方である。十字架で神の愛を明らかし、信じる者に真の愛を注いで下さった。人には不可能なことを神にあって可能とする確かな道を開いて下さった。互いに愛し合うことは、確かに古くて新しい命令として、光の中を歩む者は決して忘れてはならないことなのである。

 ところがなお戒めは破られ、互いに愛し合うことの困難さがあることをヨハネは知っていた。「光の中にいると言いながら、兄弟を憎んでいる者は、いまもなお、やみの中にいるのです。・・・・」(9〜11節)「憎む」「やみの中にいる」「やみの中を歩む」など、「光の中を歩む」ことと正反対のことが指摘されている。兄弟を愛することと兄弟を憎むことを対比することによって、互いに愛し合うことを際立たせようとした。光であるキリストに留まり、キリストの愛に生きる者は決してつまずくことはないと、励ましが発せられていると同時に、兄弟を憎むなら、その人は今なお闇の中にいる危うい歩みをしていることを知りなさいと、警告が発せられているのである。

3、「互いに愛し合いなさい」との戒めを、ヨハネは「あなたがたが初めから持っている古い命令です」と考え、「新しい命令」ではないが、「しかし、私は新しい命令としてあなたがたに書き送ります」と語ったのは明白である。けれども、互いに愛し合うことについては、3章4章に進むまでは直接語らず、その戒めを思い出させようとしている。戒めを知っている、命令は分かっているとしても、それで戒めを守っていることにはならないからである。戒めをただ覚えているだけで、しかもうわべだけで守ることは容易である。そのために互いに競い合い、裁き合うことまでが教会に入り込んでいたとすれば、それは取り除かなければならなかった。ヨハネは切実な思いで語っていた。

 もう知っている、分かっていると自惚れるなら、必ずのように神の命令を忘れ、戒めを棚上げすることになる。主が「新しい戒め」と言われたのは、その戒めを聞く度、新しく聞くこと、心新たにして聞き従うことを求めておられた。闇の中でなく、光の中に移され、光の中に留まって歩む者は、常に光に照らされているのであって、日々戒めを新しく聞いて歩むことが許されている。何とかしてその歩みが導かれるようにとの祈りが大切となる。「なぜなら、やみが消え去り、まことの光がすでに輝いているからです。」この事実を心に留めるなら、確かな歩みが導かれるに違いない。(8節後半)

<結び> 私たちは礼拝をささげる度、世々の教会、今日の教会、そして私たち一人一人が、主イエス・キリストによって整えられて歩んでいるか、また神の戒めに心から従っているか、喜びと感謝をもって神に仕え、人に仕えているかと問われている。悔い改めることの多い自分を思い知らされる。けれども、礼拝において何よりの感謝は、十字架で私の身代わりとなり、贖いの死を遂げられた主を仰ぐことができることである。神を認めず、神に背いて歩んでいた者を赦すため、神の御子が十字架で血を流して下さった。その死は赦すための代価であり、神の愛は身代わりの死によって明らかにされた。そこに確かな赦しがあり、私たちはまた世に送り出されるのである。

 十字架の主イエス・キリストを仰ぐ時、私たちも神の愛に生きる者とされる。互いに愛し合うことが導かれるために、大切なことは私たちが神の愛に包まれることである。自分の足りなさや不完全さを嘆くのではなく、神がキリストにあって成して下さることに信頼し、互いに愛し合う者として下さるよう祈り続けることである。主イエス・キリストご自身から、私たちも古くて新しい命令として「互いに愛し合いなさい」と命じられていることを心に刻んで・・・。