礼拝説教要旨(2008. 3. 2)    
神のみこころを行う者           (ヨハネ第一2:12〜17)
 紀元一世紀の終わりに近づいていた頃、教会には偽りの教師たちが入り込み、偽りの教えを説くという厄介な問題があった。「光の中にいると言いながら、兄弟を憎んでいる者」がいたとは、余りにも悲しい状況である。ヨハネは厳しく偽りを指摘し、警告を発し、人々を真実な信仰へ導こうとしていた。けれども、偽りの教師たちを意識した言葉の強さに、かえって読者たちの心が沈むことも起り得た。そこでヨハネは口調を変え、励ましを与え、キリストを信じる者の確かな歩みを勧めようとした。(12〜14節)

1、教会の中に偽教師たちが紛れ込み、偽りの教えに惑わされることを防ぐのは困難であった。けれども、なお多くの人々は、忠実な聖徒としてキリストを信じる信仰に堅く立っていた。忠実な信仰者こそが惑わされることなく、堅く立つなら、確かに光の中を歩むことになる。光なる主を証しする歩みが導かれ、互いに愛し合う交わりがそこに生まれるからである。聖徒たちにとって大切なことは、もうその幸いの中にいることをはっきりと知ることである。自らの不完全さが聖徒たちの心を騒がせたとしても、主が共にいます完全さは揺るがず、主と共に歩む者の幸いは測り知れないからである。

 ヨハネは読者たちを「子どもたちよ」(「小さい者たちよ」)「父たちよ」「若い者たちよ」と呼びかけた。全ての聖徒たちに向かって、年齢的に分けて呼んだというより、信仰における霊的な面を意識していたと考えられる。キリストを信じて歩み始めたばかりの者たち、かなりの年数を経て円熟した者たち、今まさに信仰の戦いの最中にある若い者たち、そうした一人一人を覚えて手紙を書いていた。「書き送る」と「書いて来た」との言い回しの違いは、特に意味の違いがあるのでなく、思いを込めて書いていることの強調と考えられる。内容も同じことをほぼ繰り返し、キリストにあって罪の赦しを与えられたこと、神を知ったこと、悪に打ち勝った聖徒たちの勝利を強調しているのである。

2、教会に「主の御名によって」「罪が赦された」聖徒たちがいること、「御父を知った」人々がいること、この事実が、ヨハネには大きな喜びであった。聖徒たちは皆、主イエス・キリストを信じて罪を赦され、その信仰の歩みを始めた人々である。キリストを通して父なる神に立ち返った人々である。その人々には、神を「初めからおられる方」として知ったことが生きる土台となり、生涯変わらず神と共に歩むことが導かれる。日々の生活においては、様々な戦いが押し寄せたとしても、悪い者に打ち勝つ力を、神のことばを宿すことによっていただいているのである。そのような聖徒たちがいることは、いつの時代にあっても、大きな励ましであり、慰めであり、感謝である。

 「父たちよ」と呼びかけられた人々は、霊的に円熟するだけでなく、年齢的にも円熟していたと思われる。その人々に「あなたがたは初めからおられる方を、知ったからです」と語るのは、「知った」ことが今現在まで続いていることに感嘆するからである。本人も驚くほどに、神ご自身が共におられ、今に至っているのである。「若い者たちよ」と呼ばれた人々は、「悪い者に打ち勝った」ことや、自らが「強い者」であることをはっきり知ることによって、一層強くなれるが、その強さも勝利も、神のことばがうちにとどまっていることによると知ることが大切であった。いずれもキリストにあって、全く確かな歩みへと導き入れられていることを知りなさいとの励ましであった。

3、キリストのもの、キリストにあって強くされた者がどのように生きるか、それが現実問題である。ヨハネは「世をも、世にあるものをも、愛してはなりません。もしだれでも世を愛しているなら、その人のうちに御父を愛する愛はありません」と命じた。(15節)神を愛し、隣人を愛すること、互いに愛し合うことを聖徒たちに教えようとしたが、「世」を愛してはならなかった。神から離れ、神に敵対する「世」のことであり、そこに住む人々を指す「世」ではない。神に敵対し、悪が支配する「世」が存在することを認めるとともに、その「世」を決して愛してはならないのである。

 ところが、聖徒たちであっても、この世にある限り「世を愛する」惑わしと無関係ではいられず、本当に愛すべきことを後回しにして、折角の恵みを空しくすることがある。「肉の欲、目の欲、暮し向きの自慢など」は、神からのものでなく「この世から出たもの」である。ところが世々の聖徒たちが、それらに惑わされ続けている。罪ゆえの悪しき欲望、目に見えるものだけで善し悪しを判断する愚かさ、持ち物を誇って人と競っている虚しさなど、神からのものでない、世から出た誘惑がこの世には満ち溢れている。聖徒たちは「世と世の欲は滅び去ります」と言われたことを覚えなければならない。心して世の惑わしに立ち向かうことが求められているのである。(16〜17節)

<結び> 聖徒たちにとって大切なことは、愛すべき対象を勝手に取り違えてはならないことである。キリストにあって父なる神に愛されていることを知ったなら、その神を愛することを先ず第一とすること、それが聖徒たちの成すべきことである。そして神を愛することは、そのみことばを守ることであり、みことばを守る者は「神のみこころを行う者」であり、「神のみこころを行う者は、いつまでもながらえます」と、救いの完成が約束されている。目に見えるものの一切は、やがて必ず消え去り、滅び去る。天と地さえも滅びる中で、決して滅びないのは「神のみこころを行う者」だけである。神の教えを心に留め、主イエスの教えを行う者が救いへと迎えられる。

 かつて世の多くの人々は、世の終わりなど全く考えもしなかったが、今や温暖化のため、地球が滅びるのではないかと大慌てである。私たちは何に対して、何を備えるのか、大いに考えるべきである。どのように生きるかはいつの時代も、全ての人が心すべきことなのである。神を信じ、キリストを信じて、神のみこころを行う者となること、神を愛し、隣人を愛し、互いに愛し合うことを心から果たして生きること、これこそが神のみこころを行うことである。そのように生きる聖徒たちが増し加えられ、世に送り出されることを主ご自身が心から喜んで下さる。みことばをなお深く知って、みこころを行って生きる者と成らせていただくよう祈り、共に歩みたいものである。