紀元一世紀末の教会に、偽りの教師たちが紛れ込んでいたことは悲しい現実であった。しかし、その惑わしに屈することなくキリストを信じて歩む聖徒たちがいたことは、ヨハネにとって大きな喜びであった。世の惑わしにも耐え、神のみこころを行う聖徒たちの証しは、いつの時代にあっても貴いものである。ヨハネは聖徒たちの苦闘を思いやり、また何とかして励ましを与えたいと、言葉を続けた。「小さい者たちよ。今は終わりの時です。・・・・」(18節)
1、ヨハネが一貫して心に留めていたことは、偽りの信仰と本物の信仰の違いについてであった。キリストを信じる信仰が名ばかりのものとなることなく、真実な信仰となるように、それが願いであった。実際には、信仰に関する知識を競ってみたり、誇ってみたり、思いもよらないことで教会は動揺させられていた。恐らく数を頼んだり、この世で力を見せつけたり、およそキリストの十字架とは無縁なことが教会に入り込んでいたと考えられる。それら一つ一つが聖徒の交わりを損ない、互いに愛し合う交わりを歪めていたのである。
ここでヨハネが読者たちを「小さい者たちよ」と呼ぶのは、群れ全体を指してのことと思われる。彼にとって、全ての聖徒たちが子どものようであり、小さく、助けを必要とする存在であった。だからこそ、目の前の難問に尻込みすることなく、上よりの力をいただいて前進してほしいと願わずにはいられなかった。それには、徒な安心感より、現実の厳しさを認識することが大切と考え、「今は終わりの時です」と告げている。今、教会を取り巻く世界がどのような姿を見せているか、教会そのものがどのような状態になっているか、その現実の厳しさを告げるのであった。(19節)
2、終わりの日、または終わりの時に「反キリスト」が現れることは、キリストご自身が告げておられた。(マタイ24:5、11、23〜24)その警告に基づいて、パウロは「不法の人」「滅びの子」と呼んで注意を促している。(テサロニケ第二2:3〜12)ペテロも終わりの日に「あざける者」がやって来ると警告している。(ペテロ第二3:3) これらの「反キリスト」は、歴然とキリストを否定する形で現れるのではなく、キリストを信じるようにして近づくのである。教会の中に入り込み、中を乱し、やがてそこから出て行くのである。敗北や限界を感じて出て行くのであろうが、時には教会を大きく揺るがせ、多くの者を引き連れて出て行くことも起り得たのである。(※キリストの到来から再臨までの日を終わりの日、終わりの時と呼ぶ。それは悪しき時代、また不信仰の時代とも言われる。)
「反キリスト」「にせキリスト」「にせ預言者」「にせ教師」など、いろいろな形で偽りの教えが教会に入り込むのは、「終わりの時」に避けられないことである。けれども、その事実を知って対処することが、教会にとっては大きな支えとなる。キリストにある群れに留まろうとせず、交わりから出て行こうとすることに注意が必要である。一人一人が初めの教えに留まることの大切さと、群れ自身が初めの教えに留まっていることの大切さ、この両面が相俟って教会はキリストにつながり、キリストに留まっていることが可能となる。一人一人が神から知識をいただき、真理を知って堅く立っていること、これこそが教会の真の力となるのである。(20〜21節)
3、偽りの教えが偽りとして明らかになるのは、「イエスがキリストであることを否定する」ことにおいてである。イエスを神の御子と認めず、神が人となって現れて下さったことを否定する人々が、反キリストとして退けられる。イエスこそ神が人となられた方、神であり人である方として信じることが「イエスがキリストである」と信じることである。これを否定することは、御子を遣わされた御父を否定することになり、結局のところ自分以外の何ものをも認めない、恐ろしい「反キリスト」となる。御子なる神を否定し、父なる神を否定することは、自分を神とする神への反逆そのものとなる。(22〜23節)
現実問題として、見分けること、判別することは困難だったのだろうか。それ程難しくはなかったのではないだろうか。ただ目先のことや、目に見える成果を取り上げると、大いに違いがあったのであろう。主イエスご自身が警告された通りである。「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」(マタイ7:13〜14) 主が語られたこと、「滅びに至る門は大きく、その道は広いからです」を心に留めるなら、多くの惑わしから守られるに違いない。それでも心が引かれるとするなら、やはり十字架の主のもとにこそ立つことであろう。
<結び> 「小さい者たちよ。今は終わりの時です。あなたがたが反キリストの来ることを聞いていたとおり、今や多くの反キリストが現れています。それによって、今が終わりの時であることがわかります。」このように告げられてから、およそ二千年が過ぎた今も、「今は終わりの時です」との宣告は、ほとんど変わらないものと受け留められる。反キリストは増えこそすれ、減ってはいない。益々巧妙になって聖徒たちを惑わしている。真実と偽りは紙一重のようで、見分けるのは容易でない。しかし、十字架につけられたイエスをキリストと信じる信仰、十字架の死からよみがえったキリストを信じる信仰、これらを基に見分けるのは可能である。
その信仰は三位一体の神を信じる信仰である。この信仰を私たちは聖書を通して教えられ、導かれて来たのである。この信仰を保ち、「終わりの時」にあっても、惑わされることなく前進したいものである。時に感情的に揺るがされることがあっても、また知識を誇る誘惑にさらされても、そして神秘的な経験に訴えられたとしても、神の御子イエスをキリストと信じて、この方に拠り頼んで、確かな歩みをするよう導かれたい。祈りつつ歩み続けたいのである。 |
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