受難週を迎え、主イエスが最後の一週間をどのように過ごされたのかとの思いは、今年も私たちの心に迫ることである。十字架の死に向かわれる主イエス、その死はご自分の民のためのもの、身代わりの死であった。罪なくして死を迎えるのでなければ、その死は無意味となる・・・。緊迫した状況が続く中で、人々の心の頑なさと民の指導者たちの敵意に相対しつつ、最後の日々を過ごされた。そこで語られた教えには、主イエスの教えが凝縮されている。特に悔い改めを迫るものが多く語られている。今朝はその一端に触れてみたい。
1、受難週の第一日は、ロバの子に乗ってのエルサレム入場であった。人々の歓声によって迎えられていたが、心からの喜びの声ばかりでなく、「この方は、どういう方なのか」との戸惑いも混じったものであった。民の指導者たちは、宮清めをするイエスを見過ごすとともに、イエスの周りに人々が集まり、教えを聞き、病を癒されている様子を苦々しく見ていた。彼らの思いは、今こそイエスを亡き者にすることであり、そのために機をうかがうばかりであったが、大きな衝突のないまま二日が過ぎて行った。(21章1節以下)
受難週の第三日、火曜日は18節から25章46節まで続く長い論争の一日であった。イエスをおとしめようとするユダヤ人の指導者たちは、権威論争を持ちかけ、また復活のこと、一番大切な戒めのことなど、次々と論争を挑みながら退けられていた。主イエスは、的確に答え、また彼らに今こそ何をすべきか、はっきりと迫っておられた。心を頑なにするのを止め、神の前に心を開くように・・と。論争の合間には、群集と弟子たちにも同じように、「天の御国」を指し示しておられた。受難週の主イエスは、天の御国に入るために、全ての人が心を開くこと、悔い改めて神に立ち返ること、このことのためにこそ、わたしは来た!と、心から語りかけておられたのである。
2、主イエスがこの地上を歩まれた当時、人々は神の存在を疑うことはなかった。その意味では神を信じていた。けれども本当に神を信じているかどうかは、はなはだ疑問があった。外見ばかりの宗教となり、聖書の専門家でさえ、聖書の神を恐れることからは遠ざかっていた。イエスがロバの子に乗ってエルサレムに来られても、聖書が約束するキリストを正しく迎える人々はほとんどいなかった。そしてイエスの権威を問い質そうとした。イエスの権威を認めたくない、分かろうともしたくない、とにかく否定したい、ただそれだけでイエスに迫ったのである。それでイエスは反問された。「ヨハネのバプテスマは、どこから来たものですか。・・・」(23〜25節)
指導者たちの「わかりません」との答えは、「答えたくない」との意味であった。神がおられても自分に都合のよい方でない限り、認めたくないという意味である。ヨハネの権威を天からのものと認めれば、当然のようにイエスの権威も天からのもの、それなら何故それを認めないのか、自分たちの立場が無くなると、彼らは直感していたと考えられる。主はそのようなことを見抜いて、「わたしも、何の権威によってこれらのことをするのか、あなたがたに話すまい」と突き放されたのである。神の存在や権威については、どんなに説明され、説得されようと、その人自身が心から答えを出すこと、信じて従おうとする態度こそが大切だからである。(26〜27節)
3、けれども、主はただ突き放すだけにはなさらなかった。譬え話を語って、問うておられる。(28〜31節)父親の「きょう、ぶどう園に行って働いてくれ」との頼みに対して、「行きます。お父さん」と答えたものの行かなかった兄、「行きたくありません」と言ったものの、後から悪かったと思って出かけて行った弟、この「ふたりのうちどちらが、父の願ったとおりにしたのでしょう」と問われて、彼らは躊躇うことなく「あとの者です」と答えた。自分が問われると答えを濁すも、譬えなら答えられる実例である。人は誰でも成すべき善を知っている。その善を行うのに躊躇ってはならないのである。
主は、はっきりと心を入れ変えて神に立ち返る者の幸いを告げておられる。神に対して熱心で、自分たちこそ救いに入れられると安心し切っていた人々の多くが、ヨハネが義の道を説いた時にも悔い改めることがなかったのに対して、取税人や遊女たちは確かにヨハネのものに来て神に立ち返っていた。事実、ヨハネの教えに従って、神に対して罪を認めた取税人や遊女たちが悔い改めの実を結び、彼らの多くがイエスに従ったのである。イエスの指摘は、その事実を見ていながら、また知りながらもなお悔い改めないあなたがたの頑なさは、恐ろしいばかりと痛烈である。(32節)
<結び> 受難週に語られた教えの多くが、悔い改めへの招きであり、神に立ち返るチャンスは、最後の最後まで猶予されていることが告げられている。33節以下のぶどう園の農夫たちの譬えも、頑なな民を断罪するとともに、なお人々の悔い改めを神は待っておられることを明らかにしている。心を入れ替えて神に立ち返ることこそ、全ての人にとって、成すべき善、最善なのである。
神がおられ、この神に従って生きること、神が望まれるように神に仕えて生きることを、神は全ての人に望んでおられる。そんなことは考えたくもない、神とは無関係に生きていたい、放っておいてほしいと考えたとしても、最後の最後に神に立ち返るなら、その人の人生は最高の幸せへと入れられるのである。反対に、神を信じて神に従っているようでいても、本心からは従わず、形だけで、自分で自分を良しとしているなら、その人は神を退けており、心砕かれることのないまま、神によって退けられるのである。
神に立ち返る幸いは、その悔い改めが早かったから、遅過ぎたからに左右されないものである。全ての人にとって、今日、今、心を入れ変えて神に立ち返る時が備えられている。救いへの第一歩を踏み出そうとする人も、既にイエスを信じて救われ、神に従っている人も、心から神に従って歩んでいるか、いつも心の内を探られている。私たちは、今日も神の前に心を低くして生きることを選び取る、真実な悔い改めが求められている。神に立ち返るのに、生きている限り、遅過ぎることはなく、今、心を低くして神を呼ぶなら、神はその人を確かな救いに入れて下さる。その救いのために主イエスは十字架に死に、三日目によみがえって下さり、今も生きて私たちを支えていて下さるのである。
|
|