礼拝説教要旨(2008.03.23)  イースター礼拝 
私たちの希望            (コリント第一 15:19〜22)
 「今年は3月23日がイースター(キリストの復活の記念日)! キリスト教会にとって、この上もなく大切な日です。」3月の礼拝案内にこのように記した。私たちにとってキリストの復活は何よりも大切なこと、それ故に主の日毎に復活を記念して礼拝をささげ、年に一度イースターを祝い続けている。けれども、もしキリストの復活がなかったのなら、教会が祝うイースターは空しく、教会は「単なる希望」を語るに過ぎず、キリストを信じる者は「すべての人の中で一番哀れな者」となってしまう。果たしてそうであろうか。(19節)

 死者の復活を信じるなんて、科学の発達していない昔ならいざ知らず、現代では考えられない・・・という意見は、今もよく聞かされる。科学の進歩した今では、科学で究明できないことはなく、証明できないこともない、科学で説明できないことはみな怪しげ・・・と退ける。しかし、科学で説明できないことは今なお多く、私たちは一層謙虚になること、謙虚にさせられることこそ必要である。その上で復活を信じるか否かは、科学の証明云々の問題ではなく、人間としての根源が問われていることと知る必要がある。人間は、誰一人自分のいのちを支配できるわけではないからである。

  使徒パウロは、宣べ伝えた福音の中心、すなわち「最も大切なこととして伝えたのは」キリストの死であり、三日目のよみがえりであることを切々と説いた。(3節以下)復活されたキリストが弟子たちの前に次々と現れて下さったことは否定し難いことであった。それに加えて自分にも現れて下さったことは、途方もなく大きな「恵み」としか言いようがなかった。彼自身がかつて、「キリストの復活」また「死者の復活」を全く否定し、教会を迫害していたからである。十字架で死んだイエスが死からよみがえったなどとの、いかがわしい教えを広めさせてはならない、徹底的に取り締まれ・・・、それが神に対する熱心であると信じて止まなかったからである。

 そのような自分にキリストが現れて下さったことから、一大転換をし、パウロもまた復活の証人とされ、十字架と復活こそが福音の中心と信じて語り続けた。復活されたキリストにお会いした者はみな、単なる死者のよみがえりではなく、キリストが死からよみがえられたと同じいのちを受けることを信じ、永遠のいのちをいただいて生きる者とされることを信じたのである。天の御国に迎え入れられる望みは揺るがず、今地上にあっても永遠のいのちを受けて生きるのである。彼らが復活の証人として生きる時、たとえ肉体の死によって脅かされることがあっても、怯むことはなかった。ペンテコステ以降の弟子たちの一人一人、最初の殉教者となったステパノ、彼らはみな、復活のキリストにお会いし、確かな希望をいただいて、その信仰が堅くされていたのである。

  キリストの復活を信じて、復活のいのちに生きる望みを与えられることは、決して「単なる希望」を与えられることではない。もしキリストが復活していなかったなら、それは単なる希望でしかなく、キリストに望みを置く者は「一番哀れな者」である。「しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。」(20節) 最初の人アダムの罪によって、全ての人は神から離れてしまった。そのため、神に背き、肉においては生きていても、霊においては神に対して死んでいたのが、今やキリストの復活により、霊において神に対して生きる者とされる、そのような救いの道が開かれたのである。キリストにある救いは、究極の救いを得て、今キリストにあって生きる者とされることである。真の希望を得て、今この地上にあっても、安心と平安を得て生きるのが、キリストにある者の生き方なのである。(21〜22節)

 私たちがキリストを信じるのは「単なる希望」ではなく、本当の「希望」としてキリストを信じことである。キリストが復活されたように、私たちも復活のいのちに生きる者とされる。ただ単に死後に永遠のいのちをいただくのではなく、また死後に天の御国に入れられるというのでもなく、今既に永遠のいのちをいただき、天に迎えられているからこそ、地上でどんな恐れがあったとしても、キリストが共にいて支えて下さると信じるのである。今キリストにあって、キリストと共に復活のいのち、永遠のいのちに生きるからこそ、やがての日の救いの完成を、確かに望み見ることができる、それが「私たちの希望」であり、確信なのである。

<結び> 「単なる希望」と本当の「希望」の違いについては、この地上を先立った信仰の仲間たちのことを思い返すことによって明らかになる。もちろん聖書の中の証人たちは言うまでもない。アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフ、モーセ・・・・・。彼らは「天の故郷にあこがれていた。」(ヘブル11:16) 地上では旅人であり寄留者であった。地上の故郷ではなく天の故郷を望み見たのである。

 私たちの教会の仲間も、そうであったことを今思い起こすことができる。ここ数年の間に天に召された方々のことが思い出される。昨年天に召された篠原玲子姉と高明子姉、天国を見上げるその信仰の確かさのゆえに、地上の日々の生活の大変さを乗り越えておられた。中山誠一兄のことも、召されるのは少し早過ぎた・・と誰もが思うものの、当人は天国をはっきりと望んでおられたことが思い出される。そして少し前になるが、福嶋義一兄は、受洗を希望されるにあたり、この地上を去った後の行く所を真剣に求めておられた。本当の希望はどこにあるのかと。

 私たちは、案外この地上に拠りかかり過ぎているのかもしれない。地上で頼れるものがある間は、なかなか真剣に本物を捜そうとはしない。地位があり、名誉があって、富や財産があると、人はなかなか本当に大切なものを求めようとしないものである。そのためだろうか。富を失い、地位も名誉も失って、ボロボロになると、かえって身軽になって、本当の「希望」を捜し、それを見出すのである。けれども、それでもまだ心を動かすことがない場合があり、人の心はどこまでも頑なである。人がキリストの復活に希望を見出し救いに与るのは、実に恵みにより、信仰による他ないのである。私たちはキリストの復活を喜び、確かな希望をいただき、感謝をもって、復活の証人として歩ませていただこうではないか。