礼拝説教要旨(2008.04.06)   
キリストにとどまる           (ヨハネ第一2:24〜29)
 キリストの教会に偽りの教師が紛れ込むという事態は、いつの時代であっても悲しむべきことである。聖徒たちが惑わしに耐え、偽りの教えに対峙することは貴いとしても、真理と偽りの差は目に見えるほどに明らかというわけではなかった。使徒ヨハネは、惑わしの中で苦闘する聖徒たちに、一層励ましの言葉を続けた。「あなたがたは、初めから聞いたことを、自分たちのうちにとどまらせなさい。もし初めから聞いたことがとどまっているなら、あなたがたも御子および御父のうちにとどまるのです。・・・」(24節以下)

1、「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」(ヨハネ 3:16〜17)初代教会の聖徒たちが初めに聞いた福音は、この言葉に集約されていたに違いない。彼らは、素朴に福音に触れ、単純に信じたのである。パウロもまた、キリストは、キリストを信じる者の罪のために十字架で死なれたこと、そしてその死から復活されたことが福音の中心と語っていた。(※コリント第一15:1以下)

 ところが初代教会において繰り返されたことは、初めから聞いていたことに何かを付け加えることであった。最初に大きな問題となったのが、行いに走ることであり、ユダヤ人以外の聖徒たちにも「割礼」を強いることであった。根底にあった惑わしは、より優れたクリスチャンになるために・・・という誘惑であったと考えられる。今のままでは不十分、不完全と指摘されると、多くの人は戸惑って、不安に陥るものである。その不安を解消するため、指摘されるままに従うことになる。そして紀元一世紀の後半には、特別な知識を誇る者や、特別な霊の力や働きを強調する者が現れていたのである。

2、人は何故か、新しいことや特別なこと、また手が届かない神秘的なことに惑わされ易い。けれども、イエス・キリストを信じる信仰に関しては、初めから聞いたことにとどまるのを躊躇うことはいらない。どんなに御子を貶める教えを聞かされたとしても、新しい教えが優れていると説かれても、神の御子が十字架で死なれたことを信じ、父なる神が御子を死からよみがえらせたことを信じることこそが確かな信仰である。キリストが約束された「永遠のいのち」は、キリストを信じる者に確かに与えられ、聖徒たちは今この世にあっても、永遠のいのちをいただいて生きる者とされているのである。(25節)

 にせ教師たちによる霊の強調は、聖霊の働きや聖徒たちが既に聖霊を受けていることなどについて、聖徒たちの確信を揺るがしていた。目には見えない聖霊の存在と働きであるので、霊の強調については、いつの時代も注意が必要である。すなわち、あたかも霊の働きが目に見えるかのように実感できるとか、霊に満たされて高揚することなどを説く教えに注意することである。イエスをキリストと信じた時に聖霊が注がれたこと、聖霊が注がれたことによってキリストへの信仰が言い表されたことを心に留めることが肝心である。全ての聖徒たちに、「キリストから受けたそそぎの油があなたがたのうちにとどまっています」と明言されているからである。(26〜27節)

3、聖徒たちは聖霊が注がれていることによって、キリストの教えを理解し、真理へと導き入れられている。聖霊が「すべてのことについてあなたがたを教える」と言われるように、聖徒たちは聖霊に教えられて、信仰の生涯を歩ませていただいている。それは確実な守りと導きによる歩みなのである。聖霊が聖徒のうちにとどまっているので、キリストの教えを誤りなく聞くことができ、キリストのうちにとどまり、キリストに繋がって生きることができる。それは決してあやふやでない、迷うことも、揺れ動くことも、恐れることもない確かな歩みである。(ヨハネ14:16〜17)

 キリストにとどまる者は、今この地上にあって迷うことなく、またキリストが再び来られる時に、恐れなく、恥じることなく御前に立つことができる。キリストにとどまっていない者、キリストに繋がっていない者は、いつも不安定な歩みをするしかなく、終わりの日の裁きを恐れて生きるのである。キリストにとどまる者は、終わりの日の裁きを恐れることはない。恐れる必要がないのである。神から生まれ、キリストにあって生かされている者、キリストにとどまっている者には、神が真実で正しい方であると信じる信仰が与えられるからである。聖徒たちは、偽りから守られ、必ず真理に立ち、義を行う者として整えられるのである。

<結び> 私たちもまた、キリストにあるなら、すなわちキリストにとどまるなら、今この地上にあって「永遠のいのち」をいただき、確かな日々を生き、終わりの日の裁きを恐れることなく生きる者とされる。そのように今生かしていただいているのである。

 この世で恐れなく、また迷うことなく生きられることの幸いは、私たちの思いを越えた幸いである。現に世の人々が余りにも迷い、行く末を案じていることを知ればなお更である。どんなにお金をかけたとしても、また富を蓄えて備えをしたとしても、神の前に富むことがなければ、人間の営みの一切は必ず滅び去る。その現実は余りにも明白である。(※ルカ 12:16〜34)

 キリストにとどまることこそ、私たちが生涯をかけて、真に追い求めるべきことである。そうする時、必ず実を結ぶこと、豊かに実を結ぶことを信じ、恐れなく歩ませていただきたい。