使徒ヨハネが聖徒たちに心から願ったこと、それは初めから聞いたこと、主イエス・キリストの教えにとどまり、キリストご自身にとどまっていることであった。偽りの教えに惑わされず、互いに愛し合いなさいと命じられた主イエスの教えを忘れないでいること、そこからそれないことが何より大切であった。知識だけに走らず、神を愛することが互いに愛し合うことに繋がる生き方は、神から生まれた者にのみ可能だからである。
1、「もしあなたがたが、神は正しい方であると知っているなら、義を行う者がみな神から生まれたこともわかるはずです。」(2:29)ヨハネは、聖徒たちの一人一人を思い、あなたがたが確かに神を信じ、神が正しい方であると知っているなら、神を信じて正しい行いに生きる者は、神から生まれたからこそ、そのように生きることが分かるはず・・・と言い切った。神を信じ、キリストにとどまって生きる者は、神から生まれた者、神の子である。神の子とされた者は、神の義に似るよう導かれていることを忘れてはならない。ヨハネは、キリストにとどまる者が必ず義を行う者となることを説こうとしていた。
その本題に入る前、「神から生まれたこと」に触れたことから、「神の子ども」とされたことの幸いを思わずにいられなかった。「私たちが神の子どもと呼ばれるために、━事実、いま私たちは神の子どもです━御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう。」(1節)神の子どもとされる恵みは、途方もなく大きく、測り知れないものである。神の愛の大きさ、その豊かさは言葉では表し得ないもの、どんなに感謝してもし切れないものである。今、神の子どもとされている事実は、途方もなく大きなことである。(なかなか気づかないことであるとしても・・・)
2、「どんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう」との表現には、「神の愛」がこの世のどんなものにも比べようのないこと、人の愛とは異質で、人の理解をはるかに超えていることが込められている。人の愛は、必ずのように見返りを求めるのに対して、神の愛は、「ひとり子をお与えになったほど」の愛である。(ヨハネ3:16)ひとり子を身代わりとしてまで罪人を救おうとされたのであった。この愛の大きさを人は理解できるのであろうか。正直に言えば「できない」としか言えない。しかし、神はそれほどの愛を与えてくださったのである。
他方、聖徒たちが神によって愛されている事実を、この世が知らないままという現実がある。聖徒たち自身が神の愛を捉え切れず、愛の豊かさを証しできないでいるのも事実である。けれども、聖徒たちが神の子であることを世が知ることのないのは、世の人々が父なる神を知らないからである。神を知ることのない者が、神の子の存在を心に留めることは有り得ない。聖徒たちは、世の人々に認められるために生きるより、神に愛されているからこそ、神を愛し、隣人を愛し、互いに愛し合うことによって、神の義を行う者として生きることが期待されているのである。
3、いつの時代に住んでいるとしても、全ての聖徒たちにとって大事なことは、「愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです」と語られていることを受け留めることである。神の子どもとされた恵みの大きさを知ることである。子と奴隷の違い、子と使用人の違い、その立場の違いや、特権と祝福の違いは測り知れない。子に保障されている自由、子に約束されている特権、それらは、全ての人にとって、自由に、また安心して生きる上での絶対的な保障というべきもの、その有る無しでその人の生き方は全く正反対となる。神の子どもとされて生きることは、人が絶対的な意味で生きる根拠を得て生きること、生きる土台を得て生きることに他ならない。
但し、今はまだ、神の子どもとしての完成の姿を見ることはない。今分かっていることは、「キリストが現れたなら、私たちはキリストに似る者となる」ことである。外面的な形ではなく、キリストの内なる性質に似る者とされる。その時まで、聖徒たちは絶えず聖霊によって聖められ、整えられ、内なる人を変えられ続けるのである。キリストご自身がキリストにとどまる全ての聖徒たちのために、キリストに似る者となる歩みを確かに導いてくださるとするなら、私たちもまた、その歩みに自分自身を差し出し、任せることこそ、神の子どもとして成すべきことなのである。
<結び> 神はご自身の民に向かって、「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。」と語り、更に「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」と告げておられる。(イザヤ43:1、4)神の愛は神に背く民に注がれ、背く者さえも神の民、神の子として愛すほどに、神の愛は豊かなのである。
また「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」と記されている。神の愛が、ご自分の「ひとり子」、代わりとなるもののない大切な御子を身代わりとするほどに、罪ある者を愛し、罪ある者に救いの道を開いてくださったのである。
私たちは、この測り知れない神の愛によって、今神の子どもとして救いをいただいている。神の子どもとして自由と安心を得て生かされている。神の子として、やがて確かにキリストに似る者となるように、今この地上にあって神の愛を証しし、また神の義を行う者として歩ませていただきたいものである。それが私たちの使命である。この世がどんなに揺れ動いたとしても・・・。
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