主イエスをキリストと信じた者、神の子とされた者の幸いは人の思い越えている。そのためにかえって幸いを理解できず、神の子の特権と祝福を見失うことがある。ヨハネは、父なる神が「どんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう」と語って、神に愛されている神の子の幸いに心を留めるよう励ましていた。そして、キリストが再び来られる時、キリストに似る者とされる確かな希望のあることを語った。神の子どもたちには、キリストの栄光の姿を見るとともに、その同じ姿に変えられる救いの完成の日があると。
1、ヨハネが、キリストが再び来られることを語り、聖徒たちが望みを抱いて生きるように励ますのは、聖徒たちが今、この世で生きる上での確かな力や勇気、そして知恵を得ることが何よりも尊いからである。実際に人は希望なしには生きられず、真の希望こそ全ての人にとって必要なものである。(的外れの希望はこの世で数限りなく、そのために人は徒に迷うばかり・・・となる。)キリストにとどまり、キリストに従う者は必ずキリストに似る者と変えられる。その希望を抱くことによって、キリストの清さに倣う者とされ、そのように生きる者となる。(3節)生き方が定まるのである。
「自分を清くします」と言っても、それは自分の心掛けや努力によるのではない。「清くする」のは内に住む聖霊の働きであり、内に住むキリストご自身が、聖徒たちを内側から変えてくださるのである。それとともに、聖徒たち自身が、自分を清くすることを願うようになる。キリストに似る者とされる希望を抱きつつ、キリストの清さに背を向けることは有り得ないからである。キリストが清いお方であると知る者は、その清さに与りたいと心から願うのである。「清くする」のは一時的なことでなく、世にある限り続くこととして、生涯に渡って自分を清くすることを求め続けるのである。ヨハネは聖徒たちにそのように生きるよう勧めていた。
2、その勧めに関連して4節以下では、「罪を犯す者」と「義を行う者」の違いに触れ、「キリストにとどまる者」の生き方を明らかにしている。ヨハネは、迷いなく明確に「罪を犯している者はみな、不法を行っているのです。罪とは律法に逆らうことなのです。・・・」、「だれでもキリストのうちにとどまる者は、罪を犯しません。・・・」と語る。キリストに倣って清さを求めるには、「罪」が何であるか、「罪とは律法に逆らうこと」「不法」であることを知らなければならない。罪とは神のみこころに対する不服従であり、単なる行為としての悪や過ちではない。神への背きが「罪」であり「不法」なのである。(4〜6節)
「罪」を、行為となって現れた「悪」、いわゆる「犯罪」の類と捉え易い。しかし、聖書が示す「罪」は、神に対する背きであり、神に逆らって生きることが「不法」そのものである。その「罪を取り除くため」にキリストが遣わされ、罪のない方として十字架につけられた。キリストを信じた者たちは皆、罪ある者のために、罪のない方が身代わりの死を遂げてくださったことを信じたのである。キリストが罪を取り除いてくださるのは、十字架の死によってであり、罪のないキリストにとどまる者は、この世にあって、罪のない歩みが必ず導かれる。罪の赦しの恵みが、聖徒たちの日々の生き方に現れることが肝心なこととなるのである。
3、「だれでもキリストのうちにとどまる者は、罪を犯しません。罪を犯す者はだれも、キリストを見てもいないし、知ってもいないのです。」(6節)「罪を犯しません」とは、「罪のうちを歩みません」と意訳することができ、キリストに連なる聖徒たちは、習慣的に、また継続的に罪を犯し続けることはないことを告げている。この断言の仕方の背後には、罪をめぐって、偽りの教えがあったと考えられる。この世で聖徒もまた罪と無関係ではいられず、罪を犯す現実に心が騒ぐ時、救いの不確かさを覚えたり、反対に罪を軽視したり、キリストのみ業の確かさを割引いてしまうからである。聖徒たちは、キリストにとどまるなら、罪を犯すことはない、犯し続けることはないまでに守られている。最早、罪の支配から解き放たれているのである。
「子どもたちよ。だれにも惑わされてはいけません。義を行う者は、キリストが正しくあられるのと同じように正しいのです。」(7節)この世で聖徒たちもまた罪を犯す事実をもって、キリストの十字架による救いを疑うことはいらない。また罪を軽視し、かえって不道徳な罪に陥ってはならない。キリストの清さに倣い、キリストの正しさを追い求めるなら、聖徒たちは必ず清くされる。そしてキリストの正しさを身に着け、「義を行う者」として世に送り出されるのである。聖徒たちはむしろ、キリストが成してくださること、導いてくださることにこそ信頼すべきなのである。
<結び> 神の子どもとされる幸いは測り知れない。神を父とし、神への絶対的信頼をもって、この世で自由に、また安心をもって生きられる・・・ということは、罪を犯さない生き方に及ぶのである。自分では自分を清くすることはできないとしても、それでもキリストに似る者とされる望みを抱いて生きる者は、「キリストが清くあられるように、自分を清くします」と言われている。自分を清くするように、聖霊によって導かれるのである。
この世では、誰もが自分を変えて欲しい、変わりたい・・・と願うものとよく言われる。実際にはそれは容易でなく、簡単には行かないことである。人間が本当の意味で変われるのは、また変えられるのは、キリストにあって、聖霊によって変えていただく以外には道がない。しかし聖霊によるなら、その不思議な力によって、自分を清くする道が備えられるのである。(※聖霊の働きは、一人一人の上に確かに成し遂げられている。)
この時代にあって、キリストの清さと正しさをもって生きる者の存在は、どれだけ期待されていることであろうか。キリストにあるなら、私たちもまたキリストのご性質に倣い、義を行う者、神の子どもとして世に送り出される。自らも自分を清くすることに心を傾けて、キリストにある者に与えられている光栄を、また幸いを喜ぶ者として歩みたいものである。
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