イエスをキリストと信じて神の子どもとされた者は、やがては完全にキリストに似る者とされる、確かな希望に生きることができる。キリストにとどまり、キリストと共に生きるので、もはや神に背くことなく、その意味で罪を犯すことはなく、キリストの清さに倣って自分を清くし、義を行う者として歩むことが導かれるのである。ヨハネは「子どもたちよ。だれにも惑わされてはいけません」と聖徒たちを励ましていた。(7節)8節以下も同じ視点で、罪から解き放たれた聖徒たちの生き方について語り続けた。
1、ヨハネは、やや極端なまでに「罪を犯している者」と「義を行う者」を比べて、両者の違いを指摘する。「罪を犯している者」は「悪魔から出た者です」と言い切り、他方「だれでも神から生まれた者は、罪を犯しません。なぜなら、神の種がその人のうちにとどまっているからです。その人は神から生まれたので、罪を犯すことができないのです」とまで断言した。(8〜9節)それは、キリストの出現、そしてキリストによる罪の贖いのみ業が、どれだけ確かなことであるか、また聖徒たち一人一人が罪から解き放たれたことが、どれ程の恵みであるかを知らせようとしたからと考えられる。
偽教師たちによる惑わしは執拗であった。その惑わしは、救いに与った後にもなお、この地上で生きる限り、現実に犯してしまう罪に関わることであった。ある者は罪を軽視するかと思えば、ある者は徒に失敗を繰り返す自分を責め、キリストが成し遂げてくださったことを空しくしていた。人としての悪しき行いを誇るような、神の光の中を生きているとは言えない教えも忍び込んでいたので、神に背いて、神の光を嫌い、悪を好んで歩む者は罪を犯しており、「悪魔から出た者です」と言わざるを得なかった。それに対して、神から生まれた者は、この世で現に罪を犯すことがあったとしても、キリストが十字架で勝利されたことのゆえに、神への背きの罪を犯すことのない者とされている。この救いの確かさこそ知るべきこと、感謝すべきことなのである。
2、キリストが十字架で命を捨てられたのは、罪を取り除くためであった。それによって、悪魔のしわざをすっかり打ち壊してしまわれた。悪魔は、今日もなお聖徒たちを惑わし、その闇の働きを続けているとしても、キリストにある者はその脅かしにさえ動じることはいらない。決して・・・! 悪魔の支配は聖徒たちには決して及ばないこと、キリストによる救いは、罪の支配と悪魔の支配からの解放であったからである。罪に支配された生活や生き方からは、全く自由とされている幸いを覚えること、これが聖徒たちの成すべきことである。「神の種」である神のことば、キリストの教えのことばが聖徒たちの心にとどまっているなら、聖徒たちの生き方は必ず正しく導かれるのである。
ヨハネは、「神の子ども」と「悪魔の子ども」との違いが明らかになるのは、神が良しとされる「義を行う」かどうかに現れることを告げる。そして、その「義」は兄弟を愛するか否かに鮮明に表れると指摘した。教会の交わりの中に偽りの教えが入り込む時、それを見分けるのが困難としても、兄弟を愛するのか愛さないのか、そこに神から出ていることか否かが露となる。神から生まれ、神から出ているなら、必ず義を行う者とされ、兄弟を愛する者となる。キリストの愛に触れた者が愛の人とされるのは自然であり、当然とも言えるが、主イエスの教えを心に留めることによって、教会の交わりは真に尊いものとされるのである。(10〜11節)よくよく心すべきこと・・・。
3、「互いに愛し合いなさい」と主イエスは命じられた。(ヨハネ13:34)ヨハネが何度も「初めから聞いたこと」と語っていたのは、主イエスが語られた教えのことであり、使徒たちが教えたことであったが、その中でも最重要と考えていたのが、この「互いに愛し合いなさい」であった。この教えを心にしっかりとどめて歩むことが、キリストにとどまることに他ならず、みことばにとどまることと語る。この教えを捨てて教会の歩みは有り得ず、教会の交わりは成り立つすべを失うのである。それで「カインのようであってはいけません。・・・」と警鐘を鳴らしている。(12節)人が愛を見失う時、すなわち自分本位にことを押し進める時、兄弟を殺しても自分の益を最優先する過ちを犯すからである。(※創世記 4:1〜16)
「互いに愛し合いなさい」との教えを聞くにあたり、聖書はこの教えに関連することとして、互いに赦し合うこと、互いに仕え合うこと、互いに励まし合うことなど、様々な教えを語っていることに気づかされる。すなわち人は自分一人では生きて行けず、必ず交わりの中で他の人と関わりながら生きる存在であることが、その前提となっている。神は人をそのようなものとしてお造りになり、そのように生かしてくださっている。他の人がいなくて良い・・・とは誰も言えず、また他の人の死を願うなど、その存在を否定する一切は神からのものではない・・・と知るべきである。それは愛からのものではないのである。
<結び> 私たちは今一度、主イエスの教えを聞き直したい。「互いに愛し合いなさい」と主は命じておられる。神への背きの罪を赦され、神の子とされた者、神に愛されている者として、この世にあってしっかり生きるよう期待されている。神の愛をキリストの十字架のみ業によって示され、その愛を受けた者として生きるよう命じられたのである。不可能なことが求められているのではなく、可能なこと、キリストにあって必ず実現することが求められている。感謝をもって、また心からの畏れをもって、互いに愛し合う歩みが導かれるよう祈りたい。
キリストを信じる聖徒たちは、神の子どもとして、キリストの清さを追い求める者となり、義を行ない、キリストの正しさに倣う者となり、兄弟を愛する者として生きる・・・と説かれている。このことを私たちは自分に当てはめることができるだろうか。あまりにかけ離れていると尻込みするのか、それともおおむね良しとして安心するのだろうか。実はどちらも問題であろう。自らの欠けを認めつつ、同時に主が聖霊の導きによって私たちの上に成し遂げていくださるみ業を知って、賛美と感謝をささげつつ前進することを主が喜んでくださるに違いない。そのようにして主を喜ぶ歩みが一人一人に、そして教会に導かれるなら何と幸いであろうか。
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