礼拝説教要旨(2008.05.04)    =日本長老教会創立記念礼拝=
行いと真実をもって           (ヨハネ第一3:13〜18)
 使徒ヨハネが伝えたかったこと、それは神の子どもとされた者の幸いであった。また罪を赦された者の確かな生き方についてであった。惑わす者がいても惑わされず、キリストにとどまり、互いに愛し合って歩むよう励ましていた。神への背きの罪からは全く解き放たれている幸いを、いささかも疑うことなく前進するようにと語ったのである。この世でなお罪との戦いがあり、弱さのゆえに失敗を繰り返すとしても、神に愛されている者の幸いは揺るがないことを、聖徒たちは感謝すべきであった。

1、しかし、そんな幸いの中にいる聖徒たちであっても、この世ではいろいろと苦しみがあり、現実の痛みを経験することは避けられなかった。苦しみの一つは、正しさを追い求めつつ、そのためにかえって世の人々から疎んじられることであった。罪と悪の支配する世の現実は今日も同じようである。正しい者が憎まれ、清い者が疎まれ、聖徒たちは心を挫かれる。それに対して「兄弟たち。世があなたがたを憎んでも、驚いてはいけません」と語り、「私たちは、自分が死からいのちに移ったことを知っています。それは、兄弟を愛しているからです。・・・」と語った。(13〜14節)

 カインが弟アベルを殺したように、罪に支配された世は神の民に敵対し、神の子どもたちを憎み、迫害さえするとしても、それは主イエスご自身が経験されたことであり、弟子たちに予告しておられたことであった。(※ヨハネ15:18〜21、16:33)主イエスご自身が、どんなに悩むことがあり、苦しむことがっても、それを遥かに越える「死からいのちに移ったこと」の幸いを教えておられたのである。聖徒たちは既にその幸いに入れられており、生きてはいても神に対しては死んでいる状態から、本当の意味で神にあって生きる者とされる幸いを、心の底から知る者となっていた。それは人を憎む生き方から、人を愛する生き方への変化であった。兄弟を愛する生活に移された自分を知るなら、そこに神の働きを見させられるのである。

2、「愛さない者は、死のうちにとどまっているのです」と語ったヨハネは、「愛さないこと」とは「憎むこと」、そして「兄弟を憎む者はみな、人殺しです。」すなわち、憎しみの行き着くところは「人殺し」であると指摘した。(15節)「殺してはならない」との神の戒めは、人を殺す行為に及ばなくても、心の内で人を憎む思いさえも問うている。生まれながらの人は全て例外なく、人殺しにつながる憎しみと無縁でなく、その限りにおいて、永遠のいのちからは遠く離れた存在なのである。全ての人は罪のゆえに、全くの絶望の中に沈んでおり、自分からは逃れるすべさえ見出し得ない。神の前で、自分には罪がないと言える人は一人もいないのである。(※ローマ3:10以下、23節)

 その全くの絶望から人が救い出されるため、また憎しみから解放されるために、神は究極の愛を示された。それがキリストの十字架の死に現された神の愛であった。「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。」(16節)憎しみは、自分を正当化して兄弟を殺す悪に走るのに対して、愛は、自分を犠牲とすることを厭わずに自分のいのちを捨てる。これが真の愛である。この愛を受けた者は、キリストに倣って、「兄弟のために、いのちを捨てる」までに、愛に生きる者と変えられる。それゆえ、「ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです」と勧められるのである。

3、キリストが十字架で示してくださった愛は、余りにも素晴らしく、余りにも確かであるが、その愛を受けた者はキリストの模範に従って、自分も愛の人として生きることが求められている。自分のいのちを捨てるまでのことはないとしても、日々の生活の中で、必ずその場面に行き当たる。その一例として、「世の富を持ちながら、兄弟が困っているのを見ても、あわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょう」と苦言を呈している。(17節)その時こそ、愛の行為をもって接する時ではないか・・・と。富がないわけでなし、持ちながら心を閉ざすのは、悲しむべきことである。

 ぼんやりと自分の周りを見ていてはならない。困っている一人の「兄弟」に目を留めることができるか、見ても心を閉ざしてしまうのか、心の底から突き動かされるようにその人に向き合うのか、キリストの愛を受けた者としての生き方が問われている。「子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行いと真実をもって愛そうではありませんか。」(18節)愛が口先だけのものとなり易いことは、だれもが気づいていることである。気持ちだけでは不十分なことがある。心からの言葉さえも空しく感じ、どうすることもできないこともある。だからこそ「私たちは、・・・行いと真実をもって愛そうではありませんか」と呼びかける。ヨハネは自分をも含めて、愛の交わりの中を歩みたいと願ったのである。

<結び> 今日、人の言葉が軽くなり、とても信じられない言葉が世の中に溢れている。(※殊更に政治家の言葉の空しさが増している。今に始まったことでないとしても・・・)人を傷つけるのは当り前、自分さえよければと、悲しみの出来事が後を絶たない。そのような世の中にあって、神の子どもとしての聖徒たちの存在は、何ものよりも尊いものである。行いと真実をもって愛を実践する者として、聖徒たちは世に送り出されている。この尊い務めを、私たちは今一度再認識させられる。日々の生活の中で、私たちの生き方は、主にあって整えられているだろうか。死からいのちに移された者として、永遠のいのちを得て、隣人に愛をもって接しているだろうか。

 カギは、キリストが十字架でご自分のいのちを捨て、罪の代価を支払ってくださったこと、その身代わりの死によって愛を注いでくださったことを知ることにある。本当の愛を本当に知ることによってのみ、私たちは「兄弟のために、いのちを捨てる」ことが可能となる。また「行いと真実をもって愛する」ことが導かれるのである。教会の交わりの中で、家庭や職場や、また地域の人々との交わり中で、私たち一人一人が愛の人として生きているかどうか、主によって期待されている。具体的な行いが日々導かれるよう、祈りをもって歩ませていただきたいものである。

※1993年5月3日、「日本基督長老教会」と「日本福音長老教会」が合同して「日本長老教会」を創立した。旧新約聖書に基づき、ウェストミンスター信仰基準に準じて、改革主義信仰、独立自治、長老政治の三原則により、イエス・キリストの福音を立証し、宣教する教会として歩もうとしている。
 2007年3月31日現在の統計によると、59教会、会員総数3,491名、礼拝出席者数平均2,179名。6中会に分かれて、それぞれの地域で歩み続けている。今年は5年に一度、大会規模での夏季修養会が開催される。