所沢聖書教会は、今日「教会設立29周年記念礼拝」を迎えた。毎年振り返っているように、1979年5月20日の長老三名の任職により「長老教会」として歩み始めたことを感謝して、5月の第三週を記念礼拝としている。今年も、主の恵みを数え、主の確かな導きを感謝し、今後の歩みを主に委ねることを導かれたい。そのために、詩篇のみ言葉に触れながら、私たちの教会の歩みを振り返り、主ご自身によって、一人一人の心を探っていただきたいと思う。
1、私たちの教会の「創立」については、ベネット宣教師による開拓伝道開始が1957年から1958年にかけてであり、今年は50周年を迎えている。ベネット師の働きが1968年の初夏の帰国で終了する頃、群れの存続は、丁度東久留米に移転した神学校に入学した横山幹雄師に委ねられることになり、家庭集会を中心とする歩みが導かれていた。翌年、横山師からソルトー師に責任が移り、その1969年4月からの一年の歩みが、後に長老教会加入への道筋として大きな意味を持っていたと考えられる。「伝道」ということにおいて熱心に溢れた群れから、「教会形成」への熱心が意識される転換点が、この一年の間に少しづつ育まれていたのである。
家庭集会の形での主の日の礼拝から、公に看板を掲げて星の宮会館で礼拝をささげることになり、最初の受洗者となったのが今井夫妻であった。4〜5人という少人数の礼拝であっても、公に教会形成をする姿勢が明確となっていった。子供たちの日曜学校は継続して開かれ、伝道集会を行って新しい人を招くことも行われた。翌1970年4月には再び横山師の奉仕となったが、教会形成の願いをもって、星の宮会館での公の礼拝は続けられた。ところがすぐに会館の使用を断られたため、集会所移転が迫られたのであった。この年の5月から、横山師に誘われて私も所沢聖書教会の奉仕に関わることになったが、前年の伝道集会チラシ配りのため、神学生数名と奉仕した時には考えもしなかったことが現実となっていた。その翌年、1971年4月に私自身が「伝道師」として迎えられ、1975年2月9日長老教会加入、1979年5月20日教会設立となった。
2、「ハレルヤ。主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。だれが主の大能のわざを語り、そのすべての誉れをふれ知らせることができよう。幸いなことよ。さばきを守り、正義を常に行う人は。」(1〜3節)詩篇の記者がこのように歌った時、彼は神の民イスラエルの歴史を振り返っていた。良いことも悪いことも、主なる神の前には何一つ隠れたことはなく、全ては露であった。真実は神にのみあり、民には、多くの偽りや過ちがあった。神に対する罪は数知れず、不信仰が繰り返されていた。それらを思い返すなら、実は今自分も全く同じように、不信仰で愚かであることを認めないわけにいかず、主がどんな時にも民を見捨てず、民を救い、民は主のもとに立ち返ることを繰り返していたことを知るのである。(4〜12節)
1968年までの約10年の歩みは、モーセ時代の荒野の40年のようだったのか、と思うことがある。ベネット師がおられて導いてくださると教会は活気づいていて、カナダに帰国されると活動は停止し、日本に戻られるとまた元気になる・・・ということがあったという。確かに「彼らはみことばを信じ、主への賛美を歌った。」けれども、長続きすることなく、自ら進んで主に従うところまでは成長していなかったのかもしれない。主のみ業を忘れたわけでなく、主を試みることもなかったに違いない。ただ主のあわれみによって群れは守られ、主が遣わされた働き人を通して、群れの一人一人は主のもとに呼び戻されていたのである。ベネット師はモーセのような存在だったのであろう。(23節)そして群れは存続し、教会として歩み続けることが導かれたのである。
3、1968年以降は、群れの進む方向を手探りしながら、公に看板を掲げたことを何とか継続しようという願いが起こされ、1971年の伝道師招聘となったと思われる。私自身は、過大な期待をされることなく、集っていた子どもたちへの重荷を担い続けることを中心に招聘を受け入れ、長老教会も伝道師派遣を承認した。5年目に長老教会加入、その4年後に教会設立となったが、主がイスラエルを導かれたのと同じように、私たちの思いを支配し、弱さや迷いのある群れを導き続けてくださったのである。イスラエルの民ほどの不信仰や背きはなかったと信じているが、全ては神のあわれみによることである。主はいつも私たちの求めを聞き届けて、恵みを注いでくださった。振り返ると、私たちは主への賛美を歌い続けるのみである。(44〜46節)
教会設立の前のこと、設立してからの29年のことは、それなりに波乱万丈であった。1978年の二期に渡る会堂建設の後、私たちの思いを越えて教勢が増し、翌年に教会設立を果したのであったが、1980年3月に複数牧会をしていた熊田雄二伝道師が辞任するという変化があった。中高校生や青年のために招いていた伝道師の奉仕が二年で終了して、それ以来、青年担当の働き人を願いつつ苦戦が続いている。1983年秋には、それまで数年に渡って続けられた幼児クラスを休会することになり、その頃は、私自身が自分の働きをしっかりと点検させられる時期であった。そして1986年7月から川越開拓伝道が始まり、1994年4月には川越伝道所が独立した。伝道所の独立は大きな喜びであったが、その三ヶ月後に伝道所が分裂するという痛みを経験することになった。不信仰や神への背きではなかったとしても、主を悲しませることであると、イスラエルの民の姿が重なるのであった。(32〜33節)
<結び> 痛みや苦しみを経験する時、主は何を私たちに教えようとしておられるのだろうか。主ご自身が私たちに対して、嫌なこと、辛いことをもたらそうとしておられるのではないとしても、それによって何かを教えようとされるなら、私たちはそれを受け留めなければならない。大事なこと、それは一層主を求め、主にのみ拠り頼むことである。主のみ手は決して変わることなく、主の救いと助けのみ手はいつも差し伸べられている。主を見失うことなく、主に呼び求めるなら、主は必ず救ってくださる。(43〜44節)それは教会の歩みにおいても、また一人一人の人生の歩みにおいても言える。主に頼る者こそ真に幸いである。
伝道所の分裂から14年が経過しているが、教会設立29周年のおよそ半分の年数である。そのことを思うと、事の重さを痛感する。主にある交わりが断たれた事実が今も残り、交わりが回復されるのか先行きは不明である。そのような痛みの中で、なお教会としての歩みを許され、救われる者が起こされ、神の民が召し集められて今に至っている。その間、2001年に牧師館が与えられ、また新たに教会に導かれた方が礼拝に出席されている。私たちの弱さや愚かさを主が乗り越えさせてくださり、主ご自身がみ業を成し遂げておられる。私たちが主への賛美を歌い続けることを、主は喜んでくださるに違いない。来年は30周年、その後50年、70年・・・と歴史を刻む時、私たちは主への賛美を歌い続け、主の恵みとあわれみを感謝し続けたいものである。(47〜48節)
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