礼拝説教要旨(2008.05.25)    
心安らかな人              (ヨハネ第一3:19〜24)
 この地上においては、神を信じる人であっても、神を信じない人であっても、日々の生活の喜びや悲しみは、また成功や失敗もさほど大きな違いなく襲って来るものである。それなら信仰があってもなくても、別にどうでもよいではないかと言う人もいる位・・・。しかし、聖書はそこには大きな違いがあること、根本的な問題があることを指摘する。神の存在を認めて慎みある生き方をするのかしないのか、神に背いている罪を認め、罪の赦しをいただいて生きるのか、あくまでも罪を認めず自分の考えで突き進むのか・・・、本当の幸いを得て生きるのかどうかを問うている。そうしたことを踏まえヨハネの手紙は、既に神の子とされ、真の幸いを得た者が喜びをもって生きるようにと励ましている。神の愛をいただいているからこそ、互いに愛し合いなさい・・・、口先だけでなく、行いと真実をもって・・・と。

1、キリストの十字架のみ業が身代わりの死であったと悟る時、「わたしたちに愛がわかったのです」と、私たちも告白することができる。その信仰によって、私たちも互いに愛し合うことが可能となる。そして実際に行いと真実をもって愛するなら、「それによって、私たちは、自分が真理に属するものであることを知り、そして、神の御前に心を安らかにされるのです」と言われている。生まれながらのままでは全く不可能なことが、実際に実行されているとすると、それは神の力によることで、真理である神のみ業が成し遂げられている。神の子としての歩みが導かれているのである。神の子とされた者は、自分が確かに神の子とされている事実を知ることも大切となる。

 そのことが分かると、そこには人知では測り知ることのできない平安が訪れる。この平安は神から来るもので、何ものにも奪い去られることがない。イエスをキリストと信じる人に、そして神の愛を知って互いに愛することを学んだ者に、確かに与えられる平安である。世にあって悩みがあり、困難があっても、十字架で死なれ、三日目によみがえられた方が共におられる助けは、何ものにも優っている。(ヨハネ16:33)全知にして全能なる神が、私たちの心の内側を知っておれるので、この神にお任せすることで、私たちは全くうろたえることはいらない。(※ピリピ4:6〜7)

2、それでも実際のところ、私たちは心を騒がせてしまう。神が与えてくださる平安は揺るがないとしても、私たちは自分がどのような者であるかを知っている。完全な愛はなく、かえって悪しき思いを捨てきれず、偽りや憎しみさえなお持ち合わせているからである。しかし神に全てを任せ、神が私の全てをご存知であると認めるなら、もはや自分を責めることさえ不用とヨハネは言う。(20節)キリストの十字架の身代わりは完全で、信じる全ての人に、罪の赦しのゆえの全き平安を約束しているからである。何度でも、繰り返し十字架で死なれたキリストの前に進み出ることにより、神の愛に心を探られ、自らも愛の人として生きることを導かれながら、心を安らかにされるのである。

 「愛する者たち。もし自分の心に責められなければ、大胆に神の御前に出ることができ、また求めるものは何でも神からいただくことができます。・・」(21〜22節)これは恐ろしいほどに大胆な言葉である。キリストを救い主と信じる者は大胆に神に近づき、信じて祈ることができることを告げている。祈りは神を信じればこその行為であり、キリストを信じて従うからこそ、その戒めである「互いに愛し合うこと」を行うのであって、神はそのように歩む者に豊かに報いてくださる。事実、私たちは一人一人、祈りを聞いていただき、求めるものを与えられ、感謝をもって今日礼拝に導かれている。数え切れない恵みを思い返すことができるのではないだろか。

3、神が人に望んでおられること、それはキリストを救い主と信じること、そしてキリストの戒めである互いに愛し合うことである。神はそうすることを喜んでくださる。そのように生きる人は神の内におり、神はその人の内におられる。その事実は人が思い込んでいることではなく、聖霊の働きにより、はっきりと知ることができる。主観的思い込みとしてでなく、聖霊の働きを通して、客観的な聖書の約束を信じることによって導かれるのである。これもまた信じることと信じないことの違いは、ほとんど説明がつかないほどである。しかし御霊なる神の働きとして、確かに一人一人の上に実現している。(23〜24節)

 キリストを信じ、兄弟や隣人を愛して生きようとする人は、必ず「神の御前に心を安らかにされる。」神に従い、自分の思いに頼らず、神に任せるので心穏やかにされるからである。自分で自分を責めることをせず、全てを知っておられる方に任せることは大きな慰めである。足りないところを知って、神に祈り求めることができる幸いは、何ものにも優る力である。世の人々が神を信じないまま占いに頼ったり、縁起をかついだり、神ならぬものに願い事をするのに比べ、人間を創造された神に頼ることがどれだけ確かであるか、決して見失わないように・・・。

<結び> 誰もが平安を求め、また幸せを求めていながら、真の神から背を向けているのは何故であろう。愛を求め、愛されることを求めながら、真の神が遣わしてくださった救い主の前に進み出るのを躊躇うのは何故であろう。最初の人アダムが神のようになろうとして、神に背いたことによって、自分からは神に立ち返ることができなくなっているからである。ただ恵みによって、神が働きかけてくださる時、心を開く人が神のもとに立ち返ることができるのである。それは全くの神のみ業であり、奇跡である。しかし、その事実を受け入れる人は救いに入れられ、真の平安をいただき、この世にあって心安らかにされるのである。

 幼い頃にキリストを救い主と信じる信仰に導かれ、祈りによって神に願うことを知ったことは、私にとって大きな宝である。心騒ぐことが周りで繰り返し起る時、祈りによって心を静められたことがどれほどであったか、恐らく数え切れない。もちろん穏やかな時ばかりでなく、苛立つこと、憤ること、激しく心を騒がせたこともしばしば・・・。喜びや感謝に溢れながらも、悲しみも苦しみも襲うのが人生であるが、神を信じ、救い主キリストを信じて、キリストの愛に生きることを導かれたいと心から願わされる。心安らかな人として歩ませていただきたいのである。それは私一人だけのことではなく、教会に導かれた方々と共に、皆が神にあって心を安らかにされ、その確かな幸いに与って歩みたいことなのである。
(※ヨハネ14:27、16:33)