礼拝説教要旨(2008.06.01)    =教会学校月間=
真理の霊と偽りの霊             (ヨハネ第一4:1〜6)
  今年も教会学校月間を迎えた。次の世代である子どもたちの健やかな成長を願いつつ過ごす月間であるが、私たち自身が心も身体も健やかであるか、何よりも魂の救いを得て生かされているかを問われていることを痛感する。大人たちの責任は大きいことを忘れず、なお聖書に聞き従うことを導かれたい。そのような思いでヨハネの手紙を読み進みたい。

1、「神の命令とは、私たちが御子イエス・キリストの御名を信じ、キリストが命じられたとおりに、私たちが互いに愛し合うことです。神の命令を守る者は神のうちにおり、神もまたその人のうちにおられます。神が私たちのうちにおられるということは、神が私たちに与えてくださった御霊によって知るのです。」(3:23〜24)このように語ったヨハネは、聖霊の働きの確かさを思いつつ、目には見えない聖霊の働きを理解することの難しさに気づいていた。そこで「愛する者たち。霊だからといって、みな信じてはいけません。それらの霊が神からのものかどうかを、ためしなさい。・・・」と語った。実際に霊を見分けることは難しく、にせ預言者による偽りの教えが広がり、当時の教会は多くの課題を抱えていたからである。(1節)

 神を信じることなく、また霊を信じないと言う人でさえ、知らずして霊の働きを認め、それに従っているというのが多くの人の現実の姿である。それほどにもろもろの霊の存在は明らかで、その働きは巧妙である。それ故に「霊だからといって、みな信じてはいけません」と注意が促されている。(※第二版:「霊を差別なしにみな信用してはいけません。」)神からの霊だけが真実なもの、真理の霊であって、信頼すべきものである。どんなに巧みに人の心に訴えるものがあっても、これを見分けなければならない。その大変さは今日もまた同じである。教会の外にあって惑わす霊があるばかりか、教会の中にも惑わす霊が入り込んでいるからである。

2、厄介なことは教会の内にある惑わす霊の存在である。見分けるためには、「人となって来たイエス・キリストを告白する霊」であるか、「イエスを告白しない霊」であるかを区別することである。神が人となって世に来られた方としてイエスを信じ、この方こそキリスト、神が遣わしてくださった救い主であるとの信仰告白を導く霊が神からのものである。この地上を歩まれたイエスが、人となられた神の御子であり、この方以外に救いはないと信じる信仰を導くのは、聖霊の働きなしには起こり得ない。ところがこの救いを曖昧にし、イエスの生涯さえも不確かなこととし、イエスの十字架も復活も、事実としては受け留めない教えが教会の中に入り込んでいたのである。(2〜3節)

 偽りの霊の中には、「反キリストの霊」でありながら、キリストの名を語り、キリストを告白するかのように働くものがあり、聖徒たちは風にもてあそばれる嵐の中の小舟のようであった。自力ではとても太刀打ちできず、沈むばかりである。ヨハネはそんな無力さに打ちのめされそうな者たちに向かって、「子どもたちよ。あなたがたは神から出た者です。そして彼らに勝ったのです。あなたがたのうちにおられる方が、この世のうちにいる、あの者よりも力があるからです」と励ましている。(4節)聖徒たちが知るべきは、キリストご自身がすでに悪魔に打ち勝っておられることである。死からよみがえられたキリストを信じる信仰こそ、真の力の源である。キリストが内に住んでくださることによって、聖徒たちはどんなことにも打ち勝つことができるのである。

3、この世の惑わしがどんなに巧みでも、神から出た者はそれに惑わされることはない。この世の者は、「この世のことば」すなわち「世からのこと」を話し、その言葉に引かれるのに対して、神から出た者は、神からのことを話し、その言葉を聞き分けるよう必ず導かれるからである。真理は数や力に頼むことなく、また見栄えや心地好さに左右されることはない。主イエスご自身が「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです」と語られたとおりである。
(マタイ 7:13〜14)

 「世のこと」「世からのこと」とは、必ずのようにお金や地位や名誉と関連している。信仰を説きながら人を騙して金儲けに走ることは、昔も今も後を断たない。(※テモテ第ー 6:5)キリスト教会とて無縁でなく、細心の注意を払うよう求められている。一人の魂の尊さを知りながら、より多くの人々を得ようとして教えを歪めかねず、この世での成功を求めてしまう。知らずして人からの賞賛を求めるなら、天における神からの報いを失うことになる。それでもこの世で人から評価されることを求めてしまうのが、私たち人間の弱さである。だからこそ、真理の霊と偽りの霊とを見分けることが大切となる。

<結び> 私たちは自分がこの世の者であるのか、それとも神から出た者であるのか、立ち止まって、自己吟味することを先ず導かれたい。その上で、人となってこの地上に来られた方、主イエスを、私の救い主キリストと心から信じる信仰にしっかり立たせていただきたい。イエスを主、私の救い主と信じる信仰は、神からのもの、神が恵みによってのみ私たちに与えてくださるものである。そしてこの信仰に立ち、この信仰を証しする者として世に送り出されることを祈りたい。この信仰こそ、人が世にあって、あらゆる困難にあっても、それを乗り越える力の源となるものである。

 様々な教えの風に吹き回されることがあるかもしれない。偽りの霊の働きに惑わされることも避けられない。しかし、真理の霊と偽りの霊とを見分けつつ前進したい。この世で成功することに惑わされることなく、十字架で死なれた主イエスを信じ、十字架につけられたイエスこそキリストと告白して、この方に従い通そうではないか。この信仰に立つ私たちをキリストご自身が支え、この地上での日々を共に歩んでくださる。そしてやがての日に天の御国に迎えてくださるのである。その救いこそ真に幸いであり、私たちの真の拠り所である。これこそが私たちの望みであることを、改めて心に留めたいものである。