使徒ヨハネは、神の子とされた者たちが世にあって惑わされることなく、しっかり立って、神の子としての幸いに生きて欲しいと願っていた。にせ教師たちに惑わされず、キリストを救い主と信じ、その信仰に生き抜いてほしいと願った。その思いで手紙を書いていたが、またもや、「私たちは、互いに愛し合いましょう」との教えを繰り返さないではいられなかった。それほどに神の子たちには、神の愛を受けて、互いに愛し合うことが求められていた。
1、「愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。・・・」(7〜8節)何度も何度も聞かされていた教えに違いない。先に、「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです」と語ったことを、一層深めて語ろうとしている。神からの真の愛を知った者、真の愛を受けた者、その私たちだからこそ「互いに愛し合いましょう」と語りかける。しかし、「愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです」と言い切るのは、愛とは無縁の争いもなかなか避けられない現実への警告でもあった。
実際に愛を説きながら、愛のない現実、愛を感じさせない実情を、代々の教会は見せている・・・と言われる。教会内に争いがあり、分裂や分派を繰り返しているのも教会の歴史である。真理を巡って必要な論争があり、止むを得ない分裂もあったとしても、やはり残念と言う他ない。一世紀の教会にあり、二十一世紀の教会にもあるので、認める他ないとしても、果たしてそれでよいのだろうか。決してよいわけではない。いつの時代であっても、キリストの教会は、神からの愛を受けた者が集められている所、神から生まれ、神を知って、神の愛をもって互いに愛し合う所と、ヨハネは語っている。いわば愛の実践所、愛の訓練所であると。
2、愛ほど私たち人間にとって必要なものはない。しかし、その愛を私たち人間は失っている事実を認めなければならない。失ったものを取り戻すにも、またそれを知るにも、人間は不完全なのである。神がご自身の愛を人間に示してくださることによって、人は初めて神の愛を知り得るのである。それはひとり子を世に遣わし、その方を十字架の死に至らせることによって示された愛であり、罪人の罪を赦そうとされた測り知れない愛である。(9〜10節)「ここに、神の愛が私たちに示されたのです。」「ここに愛があるのです。」神が愛なる方であり、その神の愛が、神の御子キリストを十字架で身代わりに死なせるほどに、罪ある私たちを愛してくださったと知る時、愛が何であり、神の愛の大きさや豊かさを知るのである。
人が人に求める愛は、自分が相手を愛したので、自分も愛されるに違いないとする愛である。けれども神の愛は、人間が神を愛したことに左右されないもの、神が私たち人間を愛して、私たちの罪を赦すために御子を十字架の死につけられたものである。私たち人間に永遠のいのち、真のいのちを得させるために、ご自分の御子を身代わりに死なせるまでの愛だったのである。この愛は神ご自身の本質そのものであり、愛である神によって、私たちは愛されているのである。神の愛を知ることによって、人は神の愛に生きることができる。反対に神を知ることなしに、人は愛に生きることはできず、愛を求めつつ、愛に躓き、かえって憎しみを募らすことさえしてしまうのである。
3、「愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。」(11節)神がどれほど私たちを愛してくださったか、果たして私たちは分かるのだろうか。個人差があるに違いない。そして、自分が神に愛されていることをよく知る人ほど、隣人を愛する人になるに違いない。「兄弟のために、いのちを捨てるべきです」と言われても、本当に愛を知ることなしに、自分を捨てることなど不可能である。かえって、愛し合いなさいとの戒めは重く圧しかかり、愛のなさに打ちのめされる。神の愛に心を動かされてのみ、互いに愛し合う道は開かれるのである。
教会の証し、そして聖徒たちの務めは、互いに愛し合うことによって、神の愛を全うすることである。目には見えない方、霊であられる神を証しするのに、神ご自身を目に見える形で、人に示すことはできない。その神は、聖徒たちの証しによって、生きて働いていることを示そうとしておられる。神の愛が具体的な形をもって明らかにされることを通して・・・。(12節)お互いに他の人の存在を喜び、他の人の必要に心を配ることによって、愛は具体的に実を結ぶのである。けれども、他の人に関心を払わず、その必要に心を傾けないなら、神が注いでくださっている愛は、その人から先へは広がらず、神が内におられても、神の愛が全うされることにはならない。それは悲しいことである。
<結び> 私たちがこの世で生かされているのは何のためであろうか。「神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことです。」(ウ小教理問答1)この答えの一つが、互いに愛し合う生き方であろう。時に助け合い、時に支え合い、時には戒め合い、赦し合うことも求められる。何かの大きな事業をすることがあっても、神の愛を知らないまま事を進めるのは、大きな危険が伴う。知ったつもりで突き進むのも、はなはだ危ういものである。かえって小さなことであっても、また弱くて無力さばかりが付きまとっていても、神の愛に心を満たされている者たちが心を合わせる時、大きな力となるのである。
私たちの進む道はこれである。目には見えない神を証しするのは私たちの生き方による。「もし私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにおられ、神の愛が私たちのうちに全うされるのです」との言葉が、その通りになることを祈り求めたい。キリストの十字架によって明らかにされた神の愛こそ、私たちの拠り所であり、私たちの生きる力の源であることを証しし続けたいものである。(※ヤコブ2:1〜26、1節、13節、15〜16節)
|
|