礼拝説教要旨(2008.06.15)    =教会学校月間=
神の愛を知り、また信じる             (ヨハネ第一4:13〜17)
 使徒ヨハネは、「私たちは、互いに愛し合いましょう」と繰り返し教えた。神は愛であり、十字架のキリストに表された神の愛を受けたことによって、私たちは互いに愛することができると。ヨハネはそのことを、13節以下で更に繰り返している。神の愛がどれ程に大きく、また豊かであっても、その愛を受け、その愛に生きる者がいなければ虚しいことになる。神の愛が生きて働くことを神が望んでおられるので、ヨハネは教えを繰り返すのである。

1、「いまだかつて、だれも神を見た者はありません。もし私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにおられ、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。」(12節)このように語ったヨハネは、肉の目では見ることのできない神を知ること、またその神が働いておられることを知ることの不思議を思い巡らしていた。愛を知らず、愛のない者が愛を受けて互いに愛し合うなら、それは神の不思議な働きそのものであって、神がその人のうちにおられてこそのこと、それ以外には有り得ないと確信していた。そして、その確信を得たのは、神が御霊を与えてくださったことによると告げた。(13節)私たちが神のうちにおり、神も私たちのうちにおられることが分かるのは、御霊が与えられたからであると。

 それに加えて彼は、肉の目で神が人となられた方を見ていたこと、そのことの重さを思い出していた。神が世に遣わされた救い主であるイエスを、彼は自分の目で見て、この方と共に過ごしたので、「私たちは、御父が御子を世の救い主として遣わされたのを見て、今そのあかしをしています」(14節)と語った。神を見た者はいないが、神が世に遣わされた方、人となった神の御子イエスを、確かに見たと証言していたのである。イエスに会ったのはヨハネ一人ではなく、彼の兄弟ヤコブ、ペテロやアンデレたち12弟子となった者たち、他にもっと大勢がいた。それらの人々は皆、イエスに出会い、御霊の働きにより、イエスを神の御子キリストと告白するように導かれたのである。ヨハネはそれがイエスをキリストと信じる信仰の中心であると思い返していた。(15節)

2、「私たちが神のうちにおり、神も私たちのうちにおられること」、また、「神はその人のうちにおられ、その人も神のうちにいます」と、このように語って、神がキリストを信じる者の内に住んでくださることは、キリスト者自身が神の内に住むことでもあると繰り返す。神の愛を知って、イエスをキリストと信じることは、神であるキリストとしっかり結びつくことだからである。「私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。」(16節)キリストを信じた者は、神が内に住んでおられるとともに、自分が神の内にあることを忘れてはならないのである。

 この神にあっての事実は、「私たちに対する神の愛を知り、また信じる」ことによって、確かに受け留めるべきことである。神の愛を知ったとしても、また神の愛をいただいたとしても、私たちがたちまちのうちに愛に満ちた者に変えられるわけでないことを知る時、「神の愛を知り、また信じています」と語る意味の一端に気づかされる。神の愛は、神の愛の内にいる者、神がその人の内におられ、その人が神の内にいる人によってのみ全うされるもの、正しく神の愛を知って、また信じることによって、人と人との間に神が全うさせてくださるものである。神が御霊の働きを通して、神を信じ、神と共に歩もうとする私たちに、愛の業を導いてくださるのである。(ガラテや5:22 ※神を知ることと信じることが結びついて、初めて信仰が導かれるように、神の愛を知ることとその愛を信じることが結びついて、神の愛がその人の内にあって働き始めるのである。愛である神が働くことを信じて委ねることの尊さ・・・)

3、神の愛の内にいること、その愛の内にとどまりたい、とどまり続けたいと願うのは自然である。もちろん私たち自身が愛の人となって、神に仕え、人に仕えたいと願う。しかし、どんなに頑張ったとしても、私たち人間の努力や熱心によっても、私たちの愛には限界がある。神の愛が全うされるには、神が私たちの内におられることと、私たちが神の内にいることを欠くことはできない。主イエスを救い主キリストと信じ、御霊によって生かされ続けること、これ以外に道はない。しかし、この信仰に立つなら、恐れなく、愛の人としての歩みが導かれる。キリストに似る者としての歩みが導かれるからである。

 キリストに似る者の歩み、「この世にあってキリストを同じような者」の歩みは、追い求めて達するものではない。それは神を信じ、自らを神に任せる時、神が私たちをも造り変えてくださることである。御霊の実として「愛」が挙げられるのは、キリストに結びついているなら、そのいのちを受けて実を結ぶことの約束であり、急激な変化より、時間をかけた変化としての結実を、神が良しとしておられることが暗示されている。そのことを踏まえて神を愛する私たちの愛、そこから湧き出る人への愛が、「完全なものとなりました」と言われている。キリストにあるなら、そしてキリストのように歩むなら、私たちも恐れなくさばきの日に、神の前に立つことができるのである。

<結び> 私たちがこの世でキリストのように歩む上での大切なこと、それは神の愛を表して生きること、愛においてキリストに似ることであると、ヨハネは伝えようとしていた。執拗に神の愛を説いている。「神は愛です。愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。このことによって、愛が私たちにいおても完全なものとなりました。」そことを言う前に「私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています」と語っているは、人が神の愛を知っても、その愛が実を結ぶためには、信じることを欠くことはできなかったからである。

 このことは、神が私たち人間の内にあって、確実に成していてくださる御業を信じることの大切さを教えている。神は必ず私たちを造り変えてくださるのである。愛のなさ、足りなさを知りつつも、神が御霊によって愛の業をさせてくださっていると認めることがカギとなる。「自分は変わらない!」とあきらめてはならない。神がこの私のために、絶対的と言える程に成し遂げておられる事実を認めて生きることによって、神への感謝や賛美が導かれる不思議を経験させてくださるのである。だからこそ神の愛を知り、また信じて歩ませていただきたいのである。