この度は「喜びをもって礼拝を捧げましょう」というテーマをいただきました。本当に、喜びをもって礼拝を捧げたいものです。そのために私たちは何を知るべきでしょうか? 私には神を礼拝する資格がないと知ることではないでしょうか。本来は、神に受け容れられるはずもない者が礼拝に招かれ、その礼拝を主が喜んでくださる。このことに気付く時、私たちは「喜びをもって礼拝を捧げる」者とされます。今朝は、そのことを与えられた聖書の箇所から学びたいと思います。
ルカ18章は、祈りの教えから始まります。それは1節にあるように「いつでも祈るべきであり、失望してはならないことを教えるため」でした。その終わりのところで、主イエスはゆゆしいことを言われます。8節後半「しかし、人の子が来たとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか」
ルカ福音書は、すぐ前の17章で世の終わりについて語っています。主の裁きの日が近づいていること。ノアの日のように人々が日常の生活をしているときに、その日は突然やってくるということでした。
「しかし、人の子が来たとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか」と、主イエスは案じておられるのです。2008年の6月22日、この日まで主の教会は、人の子の来られる日を待ち望みながら礼拝を捧げているわけですが、私たちの信仰は大丈夫でしょうか? 私たちには、いつも祈る信仰、祈らずにはおられない切実な信仰があるでしょうか?
もうだいぶ前にクリスチャンになって、クリスチャンらしさも身に着いてまいりましたから特に心配もなければ、切実に願うこともございません、というようなことはありませんか。
主イエスは、「しかし、人の子が来たとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか」と案じておられます。この「信仰」には定冠詞がついておりまして、「その信仰」、つまり「失望せず祈り続ける信仰」があるでしょうか」と問うておられるのです。私たちは、どうでしょうか?
では、今朝の箇所に入りたいと思います。ここに登場するのは、切実に祈ることを忘れた人です。自分は神に受け容れられて当然と思って疑わない人です。
9〜12節 自分を義人だと自任し、他の人を見下している者たちに対しては、イエスはこのようなたとえを話された。「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。パリサイ人は、
立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようでないことを感謝します。私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』」
ここには両極端な二人が登場します。方や旧約聖書の戒めを必要以上に厳格に守り、自分は正しいと信じ込んでいるパリサイ人。方や、ローマの手先となって同胞から収奪し、汚れていると看做されていた取税人です。
まず、パリサイ人ですが、毎週二日断食し、収入の10分の一を必ずささげている。大したものです。ある意味、こういう人が今も教会を支えているのです。収入の10分の一を捧げ、週に二日断食するのが悪いわけではありません。これはすばらしいことです。しかし、そのことによって、自分は当然のごとく神に受け入れられていると考えたところにパリサイ人の過ちがありました。
私は、これを自分とは関係ないとは思えません。私は、人と較べて特に罪が深いとは思いませんし、生まれたときから教会を離れたこともなく、洗礼を受けて30年です。献身して牧師になり、神学校の校長でもありますから、信仰的に見て、あまりみっともないようなこともできませんし、いたしません。
しかし、そのことで、私は神にふさわしい、神に受け容れられて当然であると考えることはできません。今日、ここに来るまで、町で電車の中で出合った人たちとは違うと見下すようなことであるならば、私の魂は危険な状態にあると言わなければなりません。
旧約聖書、特にレビ記には、神に受け容れられる礼拝がどういうものであるかをこと細かく記しています。そもそも、人は神を見ることも神に近づくこともできません。神を見たら死ななくてはなりません。祭司は、無作法をして死なないように細心の注意を払っていけにえをささげました。神に受け容れられるように、最高の動物をいけにえとするのです。
現代人は、自分の好みにあった礼拝、自分が受け容れ易い礼拝を求めがちですが、旧約聖書は、徹頭徹尾、神に受け容れられる礼拝を教えるのです。そして、どんなに宝を積み努力をしても、人はその功績によって受け容れられるものではないことを教えているのです。このことをパリサイ人は履き違えていいました。
これに対して、収税人の姿はこうでした。
13節 ところが取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください』
収税人は、こう思うしかありません。彼らは自他共に認める罪人なのです。そして、彼らの律法に従わない生き方、貪る生き方がよいのでは断じてありません。その生き方は汚れたものであり、推奨されるようなことではありません。
しかし、自分などは、到底神に受け入れられるものではない。そんなことはあり得ないと自覚しているところがよいのです。「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」 聖書の説く、悪人正機説です。
しかも注目すべきは、それにも拘わらず、失望せずに祈りにやってきていることです。失望しない訳は、自分の正しさではなく、別のことを期待しているからです。彼はそれを口にしています。「こんな罪人の私をあわれんでください」。彼が求めているのは報酬ではなく、あわれみでした。
いったい、どちらの人が、神にふさわしいのでしょうか。いずれが神に受け入れられるのですか。
主イエスの、このたとえ話の結論です。
14節 あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低められ、自分を低くする者は高められるからです。
人は、行ないによってではなく、恵みのゆえに受け入れられることをくり返し説いたのはパウロでしたが、ここにおいて主イエスご自身が「行ないによらない義認」を語っておられます。
私たちは、クリスチャンになって目に見える罪を犯すことは随分減ったでしょう。しかし、だから罪を赦されたのではなく、罪を赦された結果そうされているのです。私たちは、本来、目を天に向けることのできない者です。神の前に恐れおののき打ち震え、胸をたたく他ありません。
ところが、あろうことか、私たちが受けるべき裁きはイエス・キリストがこれを受けられたのです。そして、イエス・キリストの義が、私の義とされたのです。信じた最初のころだけでなく、今でもそうなのです。イエス・キリストに罪を覆っていただくことがなければ、聖なる神の前に出て祈り、礼拝を捧げるなど、私たちには及びもつきません。イエス・キリストによらなければ滅びるしかない罪人であることは、最初から今に至るまで変わりません。
まとめて終わりたいと思います。
パリサイ人のような生活、それ自体が悪いわけではない。しかし、その生活がもたらした高ぶりは最もよろしくない。一方、収税人のような生き方が推奨されるのかというと、そうではない。しかし、自分を義人だと自任して、他の人を見下しているパリサイ人と比べると決定的によいことがわかりました。
主イエスは、このことをこう説明されます。
「なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです」
ルターはこう考えました(『詩篇講釈抄』p187、38篇)。「神は捨てられたものでないと、受け入れない。病人でないと健康にしない。盲人でないと見えるようにしない。死人でないと生かさない。罪人でないと救わない。愚者でないと賢者にしない。要するに、神は悲惨な者でないとあわれまない。不遇のうちにいる者でないと恵まない。それゆえ高慢な聖徒や賢者、あるいは義人は神の仕事の材料になりえない。彼らは神のわざを自分のうちに受け入れないで、自分自身のわざにとどまり、自分自身を外観上の偽りの色づけをして捏造した聖徒、すなわち偽善者にする」
このような信仰を、主は求めておられるのです。このような信仰が、終わりの日に見られるだろうか、と問うておられたのです。礼拝、祈りは、自分を高くする機会ではなく、自分の低さを確かめる時でありたいものです。ひるがえって私たちはどうでしょうか?礼拝をささげ、十一献金をし、祈祷会に集い、と、ここまではよいのですが、その結果、心の中で11節の祈りをしているようなことはないか?
私は、礼拝しうるものなのかといえば決してそうではない。神の聖さを思えば、まったくふさわしくないものが、イエス・キリストのいのちの犠牲のゆえに受け容れられている。キリストという真白き衣に恥ずべき罪を覆われて、恐れなく主を礼拝することを許されているのです。
最初に申し上げましたように、私たちは、心からの喜びをもって礼拝を捧げたいと願います。そのために私たちは何を知るべきですか? 私には神を礼拝する資格がない、これっぽっちもないということです。主イエスのたとえ話の取税人を脳裏に描きながら、会堂に座し、祈りを捧げ、福音を聴きましょう。そして、喜びをもって礼拝を捧げ、義とされた者の足取りで、今週の働きへと出てまいりましょう。
祈り「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください」この気持ちを忘れることなく、失望することなく、終わりの日まで祈り続ける者であらせてください。 |