礼拝説教要旨(2008.07.06)    =海外宣教週間=    
全き愛には恐れがない          (ヨハネ第一4:18〜21)
 「愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。」(11節)このように語った使徒ヨハネは、神が御子を遣わし、十字架の死によって罪人を救おうとされた神の愛を知った者は、その愛を受けて互いに愛する者となると信じていた。その人は神の愛の内にいる者となり、神もその人の内におられ、キリストに似る者となって、御霊の実としての愛が実を結ぶからである。それは不可能が可能となる私たちの思いを越えた神のみ業である。愛において神に似る者となり、いよいよ全き者とされる歩みが一人一人の聖徒に導かれるのは何と幸いであろうか。

1、「愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。恐れる者の愛は、全きものとなっていないのです。」(18節)ヨハネはこのように言葉を続けた。神の愛が実を結ぶ時、聖徒たちは恐れから解き放たれる。神と人との関係においても、また人と人との関係においても、愛が完全なものとなるなら、そこに恐れは消え去るからである。神の愛は罪を赦す愛であり、もはや刑罰は取り去られたので、恐れなく神に近づくことができ、その愛を受けた者もまた、互いに赦し合うことが導かれるのである。

 私たちは、神をどのような方と見ているのか、それが肝心である。神を聖い方、正しい方、あるいは罪を裁く方・・・。また、愛なる方、恵みといつくしみに富む方・・・。神は限りなく愛に満ちておられるとしても、その愛は罪を見過ごすものではなかった。罪に対しては心を痛めておられ、ご自身の正しさの故に、裁きをくだすことをなさる。もし罪の事実をそのままにするなら、私たちは裁かれ、刑罰を免れることはできず、恐れが圧し掛かる。けれども神が愛を注いで、赦しの道を備えてくださったので、その赦しによって、恐れから解き放たれる。神は、もはや恐れることのないように、私たちを愛し、神の赦しの確かさを信じて安らうよう招いてくださっているからである。(19節)

2、「愛には恐れがありません」、また「全き愛は恐れを締め出します」と言う時、その「愛」とは神を愛する愛のことが先ず第一である。神を知り、神を愛するようになったとしても、なお神を徒に恐れることがある。神の子とされ、聖徒として歩むようになったとしても、私たちの地上での現実は厳しく、神の子らしからぬ思いや行いを繰り返し、また、とても聖徒には似つかわしくない言動さえ免れない日々を送るからである。だからこそ、神が先ず私たちを愛してくださり、御子を遣わしてくださったこと、その御子が十字架で身代わりに死ぬまでに愛してくださったことを心に刻むことがないと、全き愛に到達するのは困難となる。しかし、罪を赦すために神がどれ程の愛を注いでくださったかを知ることによって、私たちの神への愛は全きものとなるのである。

 神への全き愛は、神の愛をよく知ることによりいよいよ確かなものとなり、全き愛によって神を愛することによって、神に愛されている聖徒たちの間においても、互いの愛は全きものへと育まれるのである。それで「神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません」と、ヨハネは厳しく語る。(20節)恐れのない全き愛は、当然のように兄弟を愛する確かな愛となって現れるものであると。たとえ憎しみという程でなくても、兄弟を愛するのに躊躇いがあるなら、そこで立ち止まることが大切である。神を愛する自分と、兄弟を愛する自分に矛盾はないかを問うことが必要となる。その時、一層神の愛に心を満たしていただくよう祈ることが肝心となる。

3、神を愛する者にとって、神を愛すると言いながら、兄弟を愛さないという言行の不一致は致命的である。致命的でありながら、現実には何とこの過ちを繰り返していることかと呆れる程である。ヨハネは聖徒たちの弱さや愚かさを知ってこの手紙を書いていた。教会に敵対する偽りの教師たちだけの問題ではなく、聖徒たちも心すべきこととして、神を愛すると言うなら、兄弟を決して憎むことのないように諭している。(※1:6、2:4、2:9、2:22〜23、3:17) 偽り者となる落し穴は、思いの他多く、聖徒たちは自らの弱さを認めつつ、日々の生活において、神を愛し、神に従う者としての歩みが導かれるよう、祈りを欠かしてはならない。

 聖徒たちの日々の歩みにおける言行一致のために、ヨハネは「神を愛する者は、兄弟をも愛すべきです。私たちはこの命令をキリストから受けています」と明言した。(21節)キリストへの服従こそが、神の子とされた者たちの歩む道だからである。ヨハネが勧めるからでなく、また有能な教師たちにより提案されたからでもなく、神の戒めを踏まえた上で、主イエス・キリストが命じられたこと、この事実が「神を愛し、兄弟をも愛す」べきことの絶対的な根拠である。もちろん、愛すべきだから愛すべし・・・と思うばかりでは、決して愛することにならない。キリストが御霊を遣わし、聖徒たちに御霊の実として愛の業を結ばせてくださるので、この命令が与えられているのである。

<結び> 私たちは今日、神を愛していると言うなら、恐れのない全き愛によって愛しているかどうかが問われている。神の赦しのみ業を信じているなら、今私たちは恐れなく、心安んじてみ前に集っている。しかし、もし赦しを確信できず、また神の聖さと正しさの前に震えるなら、今一度、真心から十字架の主イエスを仰ぎ見るように招かれていることになる。今朝の礼拝に聖餐式が備えられているのは、正しく主の前に、罪の悔い改めをもって出るように、また罪の赦しを心から信じて、恐れなく神の前に進み出るようにと招かれていることである。全き愛によって、恐れなく進み出る者こそ幸いである。

 また今週が「海外宣教週間」であることは、「神を愛する者は、兄弟をも愛すべきです」との勧めを、宣教への促しとして聞くよう導かれていることでもある。「兄弟」とは、先ずはキリストにある兄弟姉妹を指すと考えられるが、その範囲を越えて、より多くの世の人々を指すと考えるなら、宣教は全き愛の業として、主が望んでおられることが明白となる。そして実際に宣教に携わる人々は、全き愛に押し出されるようにして、恐れなく全世界へと遣わされている。私たちは、直接その働きに就く者であっても、また間接的に関わる者であっても、全き愛によって促され、押し出されて、福音の広がりのために用いていただけるよう祈りたいものである。