「愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。」(4:11)「神を愛する者は、兄弟をも愛すべきです。私たちはこの命令をキリストから受けています。」(4:21)互いに愛し合うことはキリストご自身の命令であると、ヨハネは念を押していた。そして、この戒めに従うには信仰がカギになる、その信仰の中身が大事である、イエスをキリストと信じる信仰が互いに愛し合う愛を生む・・・と語って手紙を書き終えようとした。
1、5章に入って、これまでの「愛」の強調から「信仰」への視点の転換がなされている。「信仰こそ!」と言うにあたり、その内容、何を信じているのかを、はっきり確認しようとした。確かに人はそれぞれ自分の責任において、何かを信じ、何かに頼る。しかし、頼るべきこと、頼るべきものが何であるかが肝心だからである。真理と結びついた肝心な信仰とは、「イエスがキリストであると信じる」信仰である。この信仰は、自分の努力などによって獲得するものではなく、神から与えられるものである。そして、この信仰を与えられた者は、「神によって生まれた」事実を認めることがカギと指摘する。(1節)
この信仰理解の大切さは、神によって生まれた結果、信じることが導かれたことにある。神が「生んでくださった」ので、「イエスがキリストであると信じる者」となったのであって、神の御業が先行することなしに、信じることには決してならなかったということである。このことが明確になるなら、神への感謝が愛となって溢れ、神によって生まれた他の人々を愛する愛が導かれるのである。生んで下さった神を愛するからこそ、その方の命令を守るという信仰が導かれ、それによって、聖徒たち一人一人が神から生まれた者、「神の子どもたち」であることが明らかになる。神の命令を守ろうとしないまま、神を愛することはできず、兄弟を憎んだまま、神を愛していますとは誰も言えないからである。(2節)
2、「神を愛するとは、神の命令を守ることです。その命令は重荷とはなりません。」(3節)このように語られることには幾らかの戸惑いがある。聖徒たちであっても、この世にある限り弱さや愚かさを免れることはできず、繰り返す失敗に心を痛めることがある。神の命令を守り続け、自発的な愛をもって互いに愛し合うことが喜びとなっています・・・と言えたら、どれだけ素晴らしいかと思うことさえある。しかしヨハネは「その命令は重荷とはなりません」と言う。そして聖徒たちについて、「神によって生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です」と宣言する。神によって生まれた者には、神に従う喜びが必ず導かれるからである。
(4節)
この世でどんなに堪え難いことがあろうと、神によって生まれた事実、そして、イエスをキリストと信じた信仰に優るものはない。主イエスは十字架で死なれたが、三日目に死からよみがえられた方である。多くの人々が見捨てた方であったが、父なる神は、このイエスこそキリストであると指し示して下さり、聖徒たちをキリストにしっかりと結びつけて下さった。主イエスを信じる聖徒たちはキリストの勝利に与っているのであって、絶対的な勝利は世にある限り続き、その勝利は来るべき世に及ぶものである。キリストが共におられることの勝利は揺るがない。(ヨハネ16:33)
3、「世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。」(5節)「世」は神に敵対し、神に背く様々の力が支配する現実の世界である。神を無視して、人間が自分を頼り、互いに競い合うばかりになっている世界である。愛は冷え、平安を失い、対立や争いが一層増し加わっている。心は荒み、恐れや苛立ちがそこここに見られ、このような「世」にあって、世に打ち勝つのは容易ではないと、弱気にさえなってしまう。実際、どんな人も自分の力ではとても打ち勝つことはできない。しかし、世に振り回されることなく、堅く立つことができるのは「イエスを神の御子と信じる者」である。キリストは世に勝った方だからである。
世が勝ち負けに拘り、しかも目に見える勝ち負けに余りにも拘るのは驚くほどである。そのような価値観の影響を受けて、聖徒たちも勝ち負けを意識し過ぎて、信仰による勝利を取り違える落し穴がある。「世に打ち勝った勝利」とは、決して力によるものではない。キリストが十字架で成し遂げて下さったことは罪に対する勝利である。そのキリストを信じて偽りの教師たちを見分け、この世で富むことや力を誇ることから自由にされる勝利は、正しく逆転の勝利である。この世では力なく弱く小さな者たちであっとしても、イエスをキリストと信じる信仰があるなら、キリストを死からよみがえらせた神によって、どんな力にも打ち勝たせていただけるのである。
<結び> 私たちは、「イエスを神の御子と信じる者」とされているか、すなわち「世に勝つ者」であるか、自分自身に問うようにと今朝導かれている。イエスをキリストと信じる信仰が与えられているのか、その信仰を追い求めているのか、いろいろな恐れや迷いの中になお留まっているのか・・・。キリストを信じる信仰を与えられているなら、それは「神によって生まれた」ことの証しであり、真に感謝なことである。信仰が与えられたのは、神が生んで下さったからに他ならない。「私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です」と、私たちも心から告白することができる。その告白に私たち全てが導かれることを願いたい。その上で神から生まれた者は互いに心から愛し合う者となって、世に勝つ者としての歩みが導かれることを祈り求めたいものである。
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