礼拝説教要旨(2008.07.27)        
人となって来られた神             (ヨハネ第一5:6〜12)
 5章に入って「愛」の強調から一転、「信仰」の強調がなされ、「・・・私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか」とヨハネは問いかけた。イエスをキリスト、神の御子と信じる信仰こそが全てに優るもの、決して見失ってはならないもの、十字架で死なれたイエスを信じることが肝心であるが、実際にはそのイエスについて、人々の理解には微妙なズレも生じていた。それで「信仰」の中身を正そうとしたのである。

1、「このイエス・キリストは、水と血とによって来られた方です。ただ水によってだけでなく、水と血とによって来られたのです。・・・」(6節)イエスを神の御子であると信じるのに、何を根拠に信じるのか、何を根拠として信じたのかを明確にしようとした。「水と血とによって来られた方です」とは何を意味するのか、読者はいささかの戸惑いを覚えたに違いない。ヨハネはイエスが確かにこの世に来られた方であること、この地上を歩まれたことを告げている。水によるバプテスマを経て公の生涯を歩まれ、十字架において血を流して身代わりの死を遂げられた方であると。人となって世に来られた方、神であり人である方、それがイエス・キリストである。(ピリピ 2:6〜8)

 イエスが神であり人であることについて、一世紀末の教会はグノーシス主義の教えなどにより、その理解が揺れ動いていた。人間であるイエスに水のバプテスマにおいて神性が付与されたとか、十字架で苦しみ悶えるイエスから神性は去っていたとか、イエスが神であるか人であるかと大いに揺らいでいた。それで神である方が人となってこの地上に来られたこと、神であり人である方が水と血を通って、罪の代価を払われたこと、そして、その歴史的な事実は真理の御霊によってあかしされ、それによって聖徒たちは信仰に導かれたことを心に留めようしたのである。(7〜8節)

2、イエスが水のバプテスマを受けられた時、御霊が天から下り、「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」と告げる天からの声が聞こえた。また十字架と復活により贖いの業を成し遂げた後、御霊を弟子たちに遣わすことを約束され、その約束はペンテコステの日に成就した。ヨハネは御霊が常に働いて、人々の心を動かしている事実を経験していたので、「御霊と水と血」の「あかし」によって、イエスを神の御子、罪からの救い主キリストと告白する信仰が導かれると語った。神が御霊を送って、人の心に信仰を起こし、イエスをキリストと信じさせて下さっているのである。

 神が御霊を送って、御子を信じるようにとあかししておられることを、人はどのように受け留めるのだろうか。人間の証言なら信じても、神の証言は信じられないということがあるのだろうか。神の証言は人の証言より遥かに優るもの、偉大なものでありながら、それさえも退ける人の心の頑なさがある。神が人となってこの世に来られ、十字架で身代わりの死を遂げ、三日目によみがえり、天に昇り、御霊を遣わして、神の御子を信じる者たちを見守っておられる事実があっても、それでも神を信じない者がいた。その頑なさについてヨハネは、「神を信じない者は、神を偽り者とするのです。神が御子についてあかしされたことを信じないからです」と断言した。(9〜10節)

3、ヨハネは心の中で、神を信じること、また神の御子を信じることの不思議を感謝していたのである。神のあかしを「自分の心の中に持っています」と言えるのは、神がその信仰を生み出してくださったからであり、信じる者を神の子として生んで下さったからである。神が御子についてあかしされていることの中心は、御子を信じる者は「永遠のいのちが与えられる」ことであり、「永遠のいのちを与えられた」と信じる者は、神にあって全き平安が与えられる。神が成して下さること、神が神の子たちに与えて下さる幸いは御子のうちにあり、御子を信じる者こそ真に幸いな者である。(11節)

 神のあかしを受け入れ、神を信じ、神の御子を信じるのは、ただただ神の恵みと導きによる。「御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません」(12節)ときっぱりと宣告される通り、このこと以外に救いの道はない。全ての人は、神を信じて生きるのか、御子イエスをキリストと信じて生きるのか、真のいのちを得て生きるのか、それとも虚しくただ息をして生きるのか、全く違った一生を送ることになるのである。神の御子を信じ、永遠のいのちを与えられて生きること、これが人間として最も大切なこと、世々に渡って、神が人に告げ知らせておられる救いへの招きである。

<結び> 神が人となって世に来られたのは、神に背いた人間を救うためであった。人間の内の誰か立派な者を救い主として立てるのではなく、神が人間を愛すればこそ、人間となって近づき、人間と同じ弱さを担って歩まれたのである。神のままでいるのでなく、神であることを止めることなく人間の姿をとられた方、これが神の御子イエス・キリストである。ベツレヘムの飼い葉おけに寝かせられていた幼子は、やがてヨルダン川で洗礼を受けた後、神の国の福音を語り始め、人々に神の前に心を入れ換えるよう悔い改めの福音を語られた。そしてゴルゴダの丘で十字架につけられ、死んで葬られ、三日目によみがえり、天に昇り、父なる神の右の座に着かれた。この方は、昨日も今日も、明日も、また世の終わりまで私たちを見守り、導き、助けて下さる方である。この神と共に生きる私たちは、永遠のいのちを持つ幸いな者である。一人も漏れることなく、神の御子イエス・キリストと共に歩ませていただきたい!