礼拝説教要旨(2008.08.03)        
神の最善を信じる            (ヨハネ第一5:13〜15)
 ヨハネは、福音書を記した時「これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである」と語った。(ヨハネ20:31)そしてこの手紙を記した時、「私が神の御子の名を信じているあなたがたに対してこれらのことを書いたのは、あなたがたが永遠のいのちを持っていることを、あなたがたによくわからせるためです」と語っている。(13節)使徒ヨハネの働きによって、イエスをキリストと信じる者たちが起こされ、永遠のいのちを得て生きる者が増し加えられていたが、その聖徒たちを励ますことが、この頃、特に必要とされていたと考えられる。

1、この手紙を記した頃、ヨハネ自身はかなり年令が進み、人生においての晩年を迎えていた。恐らく自分の人生を振り返りながら、自分の信仰を思い返していたのであろう。主イエスの教えを一つ一つ思い返し、一番大切なこと、決して忘れてはならないこと、それは何であったか・・・を思いながら筆を進めていた。神が私たち罪ある者を、底なしの愛をもって愛して下さり、罪の赦しのために御子を遣わし、十字架の死によって救って下さった。神がまず私たちを愛して下さったことを知って心を動かされるなら、当然のように私たちの生き方は定まるのではないか・・・と。「・・・私たちもまた互いに愛し合うべきです。」(4:11)

 けれどもそのように語る自分自身について、思えば思うほど不思議な神の御業があることを認めないわけにはいかなかった。イエスを神の御子と信じた自分は、「神によって生まれたのです」と告白する他なかった。イエス・キリストについて、「御霊と水と血」の三つがあかしすると語ったが、その神のあかしを受け入れるのに、自分の努力や何かがあったとは思えなかったのである。神を信じ、また神の御子を信じた時、「このあかしを自分の心の中に持っています」と言うように、神のあかしを信じさせていただいた自分がいたのである。神を偽り者とすることなく、心から神を信じることの幸いを感謝していた。多くの人が心を閉ざしているにも拘わらず・・・。

2、私は御子を信じて永遠のいのちを与えられましたと、心から告白できることを感謝する時、その同じ信仰を与えられた者たちは、同じように永遠のいのちを持っていることを、もっともっと喜び合おうではないかとの思いへと導かれていた。確かに偽教師たちの惑わしがあり、聖徒たちはいろいろな教えに吹き惑わされていた。永遠のいのちさえ思い込みに過ぎず、定かではないと言われれば、たちまち信仰が揺らぐ者もいたのである。信仰が人の知識や行いによるものであるなら、知識が乏しければ、当然のように確信は揺らぐしかなく、行いが足りないと言われれば、退く他なかったのである。

 しかし、イエスを神の御子と信じる信仰は神から来るものであり、神によって生まれたので、神の子とされており、神がその人を愛して、やがてキリストに似る者にかえて下さるのである。今の自分の弱さや不完全さにいささかも怖じ惑うことなく、今この世にあって「永遠のいのちを持っていること」をはっきりと知って歩むこと、これが聖徒たちにとっての幸いである。永遠のいのちは、いつの日か将来に与えられるものではなく、今この地上にあっても神と共に生きることを喜ぶ時、神がその人に与えて下さっている尊いいのちである。神にあって、神が生かして下さることを喜ぶ人は、この永遠のいのちを持っている。人間として本当の意味で生きるのは、神を信じ、御子イエスをキリストと信じて生きること、これ以外はないのである。

3、聖徒たちが永遠のいのちを持っていることは、神を信じて祈ることの幸いに現れる。「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。」神に祈るのは、この確信があるからであり、空しく願望を繰り返すのではない。神は何事においても、すなわち全てのことにおいて最善を成して下さる方である。それ故に聖徒たちは神に祈ることが導かれる。祈りが必ず聞かれる・・・、しかも神の最善が成ると信じるので、祈り続けることができるのである。だからこそ、祈り続けなさいと、主イエスは命じておられる。(14節、マタイ7:7〜11、ルカ18:1〜8)

 祈りが必ず聞かれるとの確信は、更に祈ったことは「すでにかなえられた」との確信に行き着く。(15節)聖徒たちの祈りは、必ず聞かれるからと祈るばかりか、既に聞かれた、答えられたとの確信を得て祈る祈りとなる。祈りを終えて立ち上がる時、答えをいただいて立ち上がっているのである。サムエルの母となったハンナの祈りは、恐らく何年にも渡って祈り続けられた。祈り終えたハンナの顔が「もはや以前のようではなかった」のは、神が祈りを聞いて下さった、願いはかなえられたと確信したからである。(毎年、そのように祈っていたのであろう。サムエル第ー1:9〜18)主イエスのゲッセマネの祈りもしかり。みこころの成ることを信じて、祈り終えておられた。主は十字架を見据えて立ち上がっておられたのである。(ルカ22:39〜46)

<結び> 私たちが祈るのも、このような確信によるのである。祈りの答えは、時に将来にはっきりと与えられるものかもしれない。けれども、だからと言って、答えられないかもしれないまま祈り続けるのではなく、神が最善を成し遂げて下さると信じる故に、今祈ったことは、必ず成ると信じて祈り続けるのである。

 私たちには多くの願い事があり、その多くが今はまだかなえられていない・・・と見えるものがある。そのため心が曇ることもあるのが現実である。しかし、神の最善を信じるなら、祈ったことは神に任せることができる。みこころにかなう願いは聞かれ、願ったことは既にかなえられたと信じることを、神が良しとして下さるのである。神を信じる私たちには、神が成して下さる最善を信じる幸いがあり、これが永遠のいのちを持って生きる私たちの幸いなのである。信じて祈り続ける者とならせていただきたい。(ピリピ4:4以下)