8月6日、9日、15日と毎年巡ってくる歴史の記念日を、今年はどのように迎え、どのように過ごしただろうか。率直なところ、この二、三年、即ち戦後60年を過ぎた頃から世の中の空気が変化し、マスコミも「平和」を強調するのを躊躇い始め、何か言いようのない緊張を強いられている・・・そんな印象がある。敏感な人からは、今ごろ気がついたのか、そんなのはもう何十年も前から同じだ・・・と言われるかもしれない。「戦争」と「平和」は実に紙一重で、私たちは常に御言葉に立って、自分の生き方を点検し、整えられ、導かれることがなければならない大切なテーマである。今どのように生きるのか、「平和をつくる人」の生き方を、常に御言葉によって学びたいものである。
1、日本の歴史を振り返る時、やはり1945年8月15日の終戦=敗戦=は大きな区切りである。明治維新以後の富国強兵の政策が破綻し、もはや決して「戦争をしない」と決めた憲法によって、国を立て直す決意をして歩み始めたからである。歩み直そうとしたのは明らかであった。その点で、8月を迎える度に思いを新たにして、過去の悲惨を思い返し、再び戦争の惨禍は繰り返すまい・・・と確認し合っていたのである。今もその思いは当然であるが、実際には、日本の国内が戦場になることはなくても、世界の至る所で戦争は繰り返されている。そして世界貢献と称し、米国に歩調を合わせて自衛隊を海外に送り出し、インド洋で米軍の艦船などに給油活動を行っている。
1945年2月16日に中国の上海で私は生まれた。翌年の4月20日頃に引揚者として博多港に上陸し、汽車で大阪の堺市浜寺に辿り着いたと、幾度となく聞かされた。日本が戦争に負けてよかった・・・という言葉も度々聞かされ、戦争をしなくてよいことがどれ程の幸いか、大人たちが話しているのを聞いて育った。ところがその幸いは次第に壊されていた。1952年(昭和27年)に日米講和条約が締結され、占領政策が終了するやたちまちのように、戦争をしないでいることをもどかしく思う人々(と思われる人々)が、政治の世界に復帰し始めていたのである。以後、様々な形での復古調がそこここに見られるようになり、今や戦争を想定した法律が公然と成立しているのである。
2、これ程までの変化を予測できたであろうか。その流れを止めることはできなかったのか。かつての戦争への道について、多くの人が「分っていたのに何も言えなかった」、「何故言えなかったのだろうか」と悔いるのを聞いて、不可解に思ったこと度々である。しかし、ここ数年の政治の状況もそれと全く同じようで、「何も言えない」と言うより、「何もできない」無力さを痛感する。国会で法案が十分に審議されないまま成立することの空しさは、やり切れなさを増す。選挙による意思表示が可能としても、もどかしさばかりが募っている。私たちはどのように考え、どのように行動すべきなのだろうか。
この世で無力さや弱さを経験する時、それは神を持ち望むべき時と気づかされる。「あなたがたのうちで、知恵のある、賢い人はだれでしょう」との問い掛けは、この段落において、明らかに「上からの知恵」、すなわち神からの知恵をいただいて、その知恵によって生きる賢い人は誰か・・・との問い掛けである。世の人々が争いを繰り返し、自分の欲望を満たすことに心を奪われているとしても、神を信じ、自分を制して生きる人こそ、神がよしとしてくださることを知りなさいと勧めている。この世と同じように振舞うことなく、目を覚ましているように、神からの知恵が与えられるなら、その知恵に相応しい「柔和な行い」が導かれ、「良い生き方」が必ず導かれる・・・と。(13節)
3、「上からの知恵」ではなく、自分の知恵や力に頼り、また力ある人の助けを求めようとする時、他の人との関係において、妬みや争い、そして敵対する心が次第に支配するようになる。そこに平和はなく、秩序の乱れが生じ、あらゆる邪悪な行いがはびこることになる。柔和な心や神が良い生き方と認めてくださることは、上から来るもの、神からのものである。真理を求めれば求める程、必ずや謙遜で柔和であること、心を低くすることが導かれるのであって、「ねたみや敵対心」を持ったままでは、決して「良い生き方」へとは進めない。この世が自分の欲に走り、争いを繰り返す時、神の民は一層神の知恵を待ち望むこと、神によって整えられる必要がある。(14〜16節)
「しかし、上からの知恵は、第一に純真であり、次に平和、寛容、温順であり、またあわれみと良い実とに満ち、えこひいきがなく、見せかけのないものです。」(17節)世の中がどれだけ揺れ動いても、またどれだけ騒がしくなったとしても、上からの知恵をいただいて、純真に生きる人がいること、たとえ一人であったとしても、その人の存在は尊い。妬みや敵対心とは無縁な、純粋で潔白な心の持ち主が一人存在することの価値や意味は、人が考える以上に大きいものである。およそ世は、平和や寛容、また温順やあわれみとは無関係に富を求め、力を誇示しようとする。良いことを軽んじ、えこひいきや見せかけが広がるばかりである。上からの知恵による良い生き方が求められているのは、いつの時代も同じである。神によって心を穏やかにされて生きることの尊さ、これを決して忘れてはならないのである。
<結び> 「義の実を結ばせる種は、平和をつくる人によって平和のうちに蒔かれます。」(18節)神の子とされた神の民一人一人の生き方は、ただ神を信じていますと告白するだけでなく、どのような実を結んで生きているかが問われている。けれども実を結ぶ前には、先ず種蒔きがあると考えると、ここでは日々の生活の大切さ、尊さが語られていることになる。また日々の地味な生活、一見、これが何になるのか・・・と戸惑うようなことの積み重ねが、やがて義の実を結ばせるというのである。神の子たちが「平和をつくる人」として生きること、歩むこと、「上からの知恵」をいただいて「平和のうちに」生きることが何よりも尊いことなのである。(マタイ5:9)
争いが始まりそうな時、上からの知恵によって寛容や温順を祈り求め、偏ることなく平和的な解決を模索するのは、神の子である「平和をつくる人」の務めである。神の子にしか果せない務めであるとしたら、私たちはどうするだろうか。神は、今のこの日本にあっても、そのような人が増し加えられることを願っておられるに違いないのである。
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