礼拝説教要旨(2008.09.07)        
いのちへの洞察        
 (ヨハネ第一5:13〜17)
 「私が神の御子の名を信じているあなたがたに対してこれらのことを書いたのは、あなたがたが永遠のいのちを持っていることを、あなたがたによくわからせるためです。」(13節)ヨハネは、イエスをキリストと信じる者が永遠のいのちを得ていること、そのいのちを持っていることを確信して生きるように心から願っていた。その確信があればこそ祈りが導かれ、神の最善を信じて祈り続けるのではないか・・・と。(14〜15節)祈りは単なる願いや願望なのではなく、神の御業がなることを待ち望む、神への信仰の告白なのである。

1、そうであるなら、何を祈り、何のために神に願うのか、それが肝心なことである。ヨハネはここで祈るべきことを一つ挙げている。「だれでも兄弟が死に至らない罪を犯しているのを見たなら、神に求めなさい。」(16節)「兄弟が罪を犯しているのを見たなら・・・」と語り、誰かの罪の現場を見たなら、当然そこで神に願うでしょう、そうしないはずがない・・・と言うのである。「そうすれば神はその人のために、死に至らない罪を犯している人々に、いのちをお与えになります。」神がとりなしの祈りを聞いて下さる時、すなわち罪を犯した人がその罪を悔い改め、神の前にへりくだるなら、神はその人に赦しを与え、いのちを与えて下さるのである。(※「兄弟」:キリストにある兄弟たちのことより、広い意味での「隣人」を指していると思われる。)

 ヨハネは「死に至る罪があります。この罪については、願うようにとは言いません」と語る。「死に至る罪」と「死に至らない罪」とが容易に見分けられるかのように語っているが、偽教師たちの惑わしのある中、見分けるのは難しかったであろう。それでも周りの人々に心配りをし、神の前に心を閉ざす者を見分け、永遠のいのちを得ることのためにとりなすこと、それが聖徒たちの務めと説くのである。永遠のいのちをいただいた者にとって、祈るべきはとりなしの祈りであり、他の人のため、兄弟のため、隣人のために、その魂の救いのためにどれだけ祈るか、そのことを問うのである。

2、祈りはついつい自分のため、また自分の必要のため・・・となり易い。実際の必要のため、すなわち物質的に何かが満たされることや、目の前の現実が劇的に好転することを願いたいものである。「神の御心がなりますように・・・」と祈っていても、自分の思うようになることを願い、そのようになった時に感謝の祈りをささげている。そのように祈ることは尊い。しかし、それ以上に、神は他の人の霊的な必要のために祈る人を求めておられる。とりなしの祈りをささげる人を求めておられる。永遠のいのちを持っている人、聖徒たちこそがその祈り手となるよう期待されているのである。

 「不正はみな罪ですが、死に至らない罪があります。」(17節)とりなしの祈りをささげる人、聖徒自身が自分の罪について見誤ってはならない。罪を犯しても結局は赦されるとして、自分の罪を軽んじてはならない。罪そのものに、犯してもよいものとそうでないものがあるのではない。「罪から来る報酬は死です。」(ローマ 6:23)この厳しい事実を認めつつ、神が罪と滅びの中から罪ある者を救おうとしておられること、そのために救い主が遣わされたこと、罪人にいのちを得させようと招いておられることを知って、隣人の救いのために祈ること、これが求められている。

3、聖徒たちは、既に永遠のいのちを持っているということをどれだけ自覚しているか、それとも、ぼんやりと知っているのか、その違いははなはだ大きい。「いのち」について、私たちはどれだけ自覚的に捉えているか、そのことが大切なのである。「息をしている」というだけの「いのち」なのか、神が生かして下さっているいる「いのち」を生きているのか、そして神の前に罪を認め、悔い改め、キリストを信じて「永遠のいのち」を得て生きているのか・・・。神によって生まれ、キリストが内に生きておられる「いのち」を生きる人は、罪に支配されることなく、罪から自由に生きることができるからである。
(※マタイ16:24〜26)

 罪から自由とされた聖徒たちだけが、「死に至らない罪」と「死に至る罪」とを見分けることができる。「死に至る罪」とは主イエスが指摘された罪であり、「聖霊をけがす罪」である。(マタイ12:31〜32、マルコ3:28〜29、ルカ12:10)聖霊が一人一人に働きかけておられるのを拒み、自らの知恵を誇って高ぶり、光より闇を愛し、神よりも世を愛することを止めないなら、そのような罪が「聖霊をけがす罪」である。聖徒たちはそのような生き方をする者のために祈ることはいらないとしても、より多くの人々の救いのために、とりなす者であるよう期待されているのである。

<結び> 私たちは、自分の「いのち」のことで思いが一杯になっていることがある。しかも、地上の「いのち」に関することで・・・。しかし、真の「いのち」、「永遠のいのち」に関することで、もっともっと心を堅くされたいものである。既に「永遠のいのち」を持っていることを心に刻んで、身近な人の「いのち」のため、「魂の救い」のために祈る者とならせていただきたい。神がそのことを私たちに望んでおられるからである。家族や友人、知り合いやその周りにいる方々のため、神に祈り、神に願いなさいと勧められている。16節と17節は、よほどのことがない限り、自分の周りにいる全ての人のために、神に祈り求めなさい、神がその人ために「いのちをお与えになります」と約束されているかのようである。10月の伝道集会を控え、私たちはとりなしの祈りを一層導かれたい。