礼拝説教要旨(2008.09.14)        
キリストの守りの確かさ
 (ヨハネ第一5:18〜20)
 「私が神の御子の名を信じているあなたがたに対してこれらのことを書いたのは、あなたがたが永遠のいのちを持っていることを、あなたがたによくわからせるためです」(13節)との願いを込めた手紙を、いよいよ書き終えるに当り、ヨハネはこれまで強調したことを三つの点にまとめた。それぞれ「私たちは知っています」と文頭で語って、これが私たちの確信ではないか・・・と問い掛けた。(※新共同訳参照)偽教師たちの教えの惑わしのある時代にあって、聖徒たちに、正しい信仰の理解によって前進しよう・・・と語る。今日の私たちにも言えることである。

1、最初の人アダムが神に背いて以来、罪がこの世に入って来た事実は、多くの悪の存在に明らかである。悪がはびこり、人々の心を蝕み、あらゆる不正をもたらしている。罪の行き着くところは死であり、滅びである。けれども神はその滅びをもたらす罪からの救いのために、御子イエス・キリストを遣わして下さった。御子を信じる者を滅びからいのちへと救うため、神は測り知れない愛を注いで下さったのである。ヨハネの強調は、救われた者は神の子とされたのであって、神の愛の内に生かされている、神がその人の内にあって生きておられる、キリストがその人の内に生きておられるということであった。

 この救いの事実について、ヨハネは「神によって生まれた者はだれも罪を犯さないことを、私たちは知っています」と言い切る。どんなに惑わしがあっても、神の子たちは神ご自身によって守られていることを強調した。「神から生まれた方が彼を守ってくださるので、悪い者は彼に触れることができないのです。」(18節)キリストはご自身の民のためにいのちを捨てるだけでなく、その人の生涯に渡って確かな守りを与え、共に歩んでいて下さる、そのようなお方である。聖徒たちは、御手の守りの中で生かされているのである。罪に怯えることはいらず、罪に支配される恐れから解き放たれている。それにも拘わらず、罪を犯すことを余りにも恐れるよう惑わされてはいないか・・・。

2、ヨハネの願いは、聖徒たちが神の子たちの幸いをいささかも割引くことのないように・・・であった。この世が罪に満ち、悪の支配下にあるとしても、この世の罪の中から選び分かたれたこと、その幸いを感謝しようと語るのである。「私たちは神からの者であり、世全体は悪い者の支配下にあることを知っています。」(19節)確かに罪はこの世にはびこっている。あらゆる不正が行われ、聖徒たちも油断すると罪の落し穴に陥る。しかし、神から生まれた者は、神に守られ、神がその罪の支配から逃れさせて下さるのである。罪の世に埋没させられることは決してない。

 主イエスが最後の晩餐の席で祈られたこと、それは弟子たちのためのとりなしであった。弟子たちを守って下さいと、父に祈っておられた。「わたしは彼らのためにお願いします。世のためではなく、あなたがわたしに下さった者たちのためにです。なぜなら彼らはあなたのものだからです。・・彼らを保ってください。・・彼らをこの世から取り去ってくださるようにというのではなく、悪い者から守ってくださるようお願いします。・・・」(ヨハネ 17:9〜26)この世がどんなに悪に染まったとしても、御子の祈りに答え、父なる神が聖徒たちを守っておられるのである。神の守り、キリストの守りは揺らぐことはない。

3、罪がこの世を支配し、悪が至る所にはびこる世にあって、真の神を信じる信仰は如何にして人々に及ぶのだろうか。誰も自分からは神を呼ぶことはなく、神なしで何でもできると高ぶるのが罪ある人間の姿である。聖徒たちの確信は、「しかし、神の御子が来て、真実な方を知る理解力を私たちに与えてくださったことを知っています」というものである。確かな信仰は、御子イエス・キリストが来られたこと、そして聖霊が遣わされたことによってもたらされた。何よりもキリストが世に来られたので、真実な方、真の神を信じる道が開けたのである。神が全てを備え、恵みを注いで救いを与えて下さった。正しく救いは神からの賜物である。(ヨハネ 1:18、エペソ 2:8)

 真実な方を知り、真実な神の内にいることを許された聖徒たちは、神の御子イエス・キリストの内にいるのである。それはこの手紙において、何度も繰り返される教えで、キリストの内にいる者は、キリストが内に住んで下さる者、キリストと同じ者、キリストに似る者として生きる、そんな確かな歩みが約束されている。それゆえに「この方こそ、まことの神、永遠のいのちです」と宣言される。(20節)聖徒たちは、偽教師たちに惑わされても恐れることはない。自分の弱さや愚かさに沈むことがあっても、キリストが成し遂げて下さった救いは確かである。悪しき者は聖徒たちに「触れることができない」からである。

<結び> キリストを信じ、罪を赦されて生きる幸いの中にいることを、「私たちは知っています」とはっきりと告白しているだろうか。また、この世は悪い者の支配下にあるとしても、「私たちは神からの者です」と告白し続けているだろうか。そして、神の御子によって、真実な方のもとに立ち返ることができ、今その真実な方と御子イエス・キリストの内にいます、と心から告白しているだろうか。

 キリストの守りの確かさを忘れて、徒に罪の誘惑や悪の惑わしに心を騒がせることがある。また、そのような惑わしによくよく注意するようにとの教えが語られる。確かにキリストから目を離さないようにしなさいと言われている。しかし、キリストが私たちに目を留め、手を差し伸べておられるのは、私たちがキリストに向いている時だけではない。たとい私たちが主を見失っていたとしても、主の目は私たちに注がれているのである。主イエス・キリストの守りは全く確かで完全で、キリストにある者の幸いは測り知れない!その確かさにこそ目を留めることが大切ではないだろうか!!