「神によって生まれた者はだれも罪を犯さないことを、私たちは知っています。神から生まれた方が彼を守っていてくださるので、悪い者は彼に触れることができないのです。・・・」(18節以下)手紙の結びは、「私たちは知っています」と語る三つの確信についてであった。この世がどんなに悪に支配され、聖徒たちもまた悪の攻撃に遭うとしても、神の御子が共にいて、聖徒たちを守って下さる守りは万全である。神が御子を遣わし、神を知り、神の内におらせて下さる救いは、決して揺るがない。しかし、最後にもうひと言、付け加えないではおれなかった。「子どもたちよ。偶像を警戒しなさい。」(21節)
1、この最後の警告は、神の子とされた聖徒たち一人一人を思い、彼らを「子どもたちよ」と呼び掛けながらのものである。神の子たちへの神の守りは万全であるからこそ、「偶像を警戒しなさい」と励ます。自分で自分の身を守りなさいとか、そうしないと危ないとの警告ではなく、守られているからこそ、自分でも警戒しなさい、と言うのである。神の子たちの幸いは、神の御手の中にある幸いである。神の内にあること、また御子イエス・キリストの内にあることとは、神が常に共にあって目を注ぎ、手を差し伸べていて下さることに他ならず、神の子たちは自分でも身を正して生きることが求められている。
ヨハネが「偶像を警戒しなさい」と語るのは、実際に「偶像」がいろいろな形で聖徒たちを惑わしていたからである。「偶像」とは、人が手で刻んだ像ばかりでなく、真の神に代わって人の心を支配する全てのものである。あらゆるものが「偶像」となり得て、真に厄介である。外から人に迫るだけでなく、その人の内側から「偶像」を求めることがあり、自分で作り出しさえする。ある時は人の教えであり、ある時は自分の思いであり、また、ある時は特定の物、特定の人が「偶像」となる。ヨハネは、定冠詞付きで「偶像」と指摘しているので、その当時、特に注意すべきことがあり、それは偽教師たちの「教え」のことであったとも想像できる。
2、使徒パウロは次のように語る。「ですから、地上のからだの諸部分、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを殺してしまいなさい。このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです。」(コロサイ 3:5)また、「私たちは、世の偶像の神は実際にはないものであること、また、唯一の神以外には神は存在しないことを知っています」とも語っている。(コリント第ー8:4)人が刻んだ像を作って、それを神としたとしても、真の神以外に神はいない。それ故に神ならぬものを恐れることなど全くいらず、結局、何かを神として祀るのは、人のむさぼる心、貪欲からのことと指摘するのである。
事実、人はむさぼる心からありとあらゆる神々を作り出し、自分にとって利益をもたらすものを「偶像」とするのである。時に、自分を忘れて夢中になれるものを「偶像」とする。しかし、その時も自分に都合のよいものを手放すことはなく、どこまでも自分に仕えてくれるものを「偶像の神」とする。もしや、真の神さえも偶像の神のように、自分に益をもたらしてくれる限り、この神に仕えよう・・・ということになりかねない。偽教師たちの偽りの教えとは、実にそのようなすり替えがあったと考えられる。行き着くところは真の神の元でなく、自分たちのための利益であり、この世にあっての名声であった。
3、「偶像」と言えば、刻んだ像を思うことが多い。(参照・詩篇135:15〜18、イザヤ40:18〜20、44:9〜17)しかし、「偶像礼拝」は像を拝むことより、自分勝手な神礼拝の全てである。どんなに真剣で、熱心であっても、的外れな礼拝に陥ることがある。ヨハネの警告は、「気をつけて、偶像を避けなさい」と訳すことができる。(※口語訳)あらゆる偶像から自分自身を守ることを勧めている。一人一人が注意を払い、周りの人の言いなりに振り回されないこと、自立した信仰の大切さが求められている。そのためにこそ神の御子がこの世に来られ、そして聖霊を遣わしていて下さるのである。
しかしまた、自分自身の思いが強すぎると、知らずして道を踏み外すことも事実である。ヨハネの手紙は、聖徒たちが互いに愛し合い、教会の交わりの中で信仰が育まれることを注意深く教えている。交わりの中で、認め合い、支え合うこと、赦し合い、受け入れ合うこと、そのことがどんなに大切であるか、神の愛を受けた者こそ、神の愛によって生きようではないかと、心を込めて語ったのである。神の確かな守りの中で、惑わされることなく、「子どもたちよ。偶像を警戒しなさい。」そして、神の豊かな愛を証ししようではないかと。
<結び> 今日、私たちが心すべきことは何であろうか。「子どもたちよ。偶像を警戒しなさい」と告げられて、何をどのように心に留めるのか。二つのことを心に刻みたい。第一のことは、イエス・キリストを救い主と信じて、真の神に真心から仕えているのかどうか、そのことが問われている。自分に益をもたらして下さるので、この方を信じているわけでなく、私を愛して下さった愛に打たれ、この方にお仕えしたいと心から願っているかである。
第二は、キリストを信じて「満ち足りる心を伴う敬虔」を身に着けているかどうか、そのことが問われている。ともすると「敬虔を利得の手段」と考えてしまう落し穴がある。(テモテ第ー6:5〜10)世の教会は常にこの誘惑にさらされているのも事実である。「偶像」は自分の外にあるより、自分の内側に巣食う思いとより密着している。それだけに心して警戒すること、それを避けることが大切となる。キリストが内に住んでおられることを忘れず、必ず守られることを信じて、地上の生涯をしっかりと歩ませていただきたいものである。
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