ヨハネの手紙第一に続いて、第二、第三の手紙へと読み進む。一世紀の終り頃、教会の中に様々な混乱があり、偽教師たちによる惑わしは巧妙で、聖徒たちの信仰は揺り動かされていた。そのため、ヨハネは一層心を込めて励ましの手紙を書き送っていた。「長老から、選ばれた夫人とその子どもたちへ。私はあなたがたをほんとうに愛しています。・・・」(1節)
1、第一の手紙に続く第二、第三の手紙は、差出人について「長老から」と名のってはいるが、個人名が記されていないため、果たしてヨハネが書いたものかどうかと議論されてきた。また宛先についても、特定の個人宛のようであり、手紙の短さもあって、私信ではないか、そうであるならなぜ新約聖書の正典として受け留められたのだろうか・・・といろいろ論じられている。そのような一つ一つのことも実に興味深い研究課題となる。けれども私たちは、この二つの手紙が聖霊の導きによって新約聖書27巻の中に入れられている事実を信じ、神からのメッセージを読み取ることが大切となる。
実は第一の手紙も、差出人は自分の名を名のってはいなかった。しかし、自分がイエス・キリストの出来事の目撃者であることをはっきりと証言し、使徒としての責任において教えを語っていたのは明白である。そしてヨハネ福音書との内容的な共通性などから、早い時期から、これは使徒ヨハネの手によるものと教会で認められていた。その第一の手紙との内容的な一致もあり、第二、第三の手紙も、ヨハネによるものと受け留められてきた。但し、研究が進むにつれ、「使徒」であるヨハネは、自分のことを「長老」とは言わないのではないかとして、別人と考える解釈もある。しかし、文字通り年令を積み重ねたヨハネが、年長者として親しみを込めて「長老から、○○へ」と語り掛けたのは自然なこととされているのである。
2、宛先について、「選ばれた夫人とその子どもたちへ」と記す。第三の手紙は「愛するガイオへ」と記し、どちらも個人に宛てた私信の要素を見せている。内容も多くを語ることはなく、より的確に、今語りたいことを告げ、すぐにでも訪ねて行って、顔と顔を合わせて語り合いたいと願っている。そのような私信に近いものも正典として扱われていること、そのことは、神がやはり一人一人、今現に生きている者を心に掛けていて下さることを、聖書自身が私たちに教えてくれる。ヨハネがもし、特定の一人に手紙を書いているなら、神ご自身はもっと確かに、特定の一人に語り掛け、手を差し伸べ、あなたのことを見守っていると語り掛けて下さっていると理解できるのである。
「選ばれた夫人」については、一個人とする解釈の他、一つの教会に宛てて、そのように呼び掛けたとも考えられている。この解釈の方が、この手紙を理解し易いと思われる。その場合、「その子どもたち」とは教会に連なる聖徒たちを指し、一つの教会をこよなく愛する気持ちを込めて書いていたのである。(※「教会:エクレシア」は女性形の名詞。パウロは「キリストの花嫁」と呼ぶ。エペソ5:29 )ただ単に個人に宛てたというより、教会の皆に教えようとして、このように語り掛けたのである。「私はあなたがたをほんとうに愛しています。私だけでなく、真理を知っている人々はみな、そうです。」この愛の交わりこそ、私たちの喜びではないかと。
3、このように手紙を書くにあたっての挨拶を述べたが、ヨハネは教会の聖徒たち一人一人を心から愛していると伝えたかったのである。その思いは、自分の周りにいる信仰の仲間も同じであると。それはどういうことか。「私たちは皆、『真理』を知った者たちであるから・・・。」すなわち、「真理」であるイエス・キリストを知ったので、キリストにある者は必ず互いに愛し合うことが導かれるというのである。愛し合うことは、「私たちのうちに宿る真理によることです。・・・」(2節)人間の好みや性格はなお影響するとしても、キリストを中心とする交わりの中にいることが、教会の愛の交わりにとっての基盤なのである。
聖徒たちは、自分の内にキリストが宿っておられること、それは真理が内に宿っていることと、はっきり自覚して歩むことが求められている。それはまた、キリストの愛が内に宿ることであり、自分で理解している以上の幸いの中にいることである。「真理と愛のうちに、父なる神と御父の御子イエス・キリストから恵みとあわれみと平安は、私たちとともにあります。」(3節)ヨハネは心からの叫びのように、この言葉を語っている。真理なる方、キリストを知ることは、罪からの自由を得させられることであり、真の自由を得て、キリストの愛に包まれて生きることは、神からの恵みとあわれみと平安という祝福を得て生きる、最高の幸せなのである。
<結び> ヨハネがこの手紙を書いた時、自分の周りに、自分と同じように「真理を知っている人」が幾人もいることを喜んでいた。キリストを知り、キリストを救い主と信じた人々がいて、互いに愛し合い、また遠くにいる聖徒たちを心から愛することも躊躇わなかった。真理を知ることによって、心を柔らかくされ、愛の人に変えられていたのである。
キリストにあって「真理を知る」ことは、本当の「愛」を知る道である。人はしばしば、「真理を知った」として自分を誇り、自分の正しさを振りかざそうとする。「真理」であるキリストを知っていながら、そのように振る舞ってしまうこともある。それは人を裁き、自分にも裁きを招く生き方となる。けれども、ヨハネの周りにいたのは、真理を知って、互いに愛し合うことを学んだ人々であった。私たちもそのような意味で、「真理を知っている人」として歩むことを導かれたいのである。(参照:ヨハネ8:31〜32)
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