礼拝説教要旨(2008.10.05)        
愛のうちを歩む
(ヨハネ第二:4〜6) 
 第二の手紙を書き送ったヨハネは、「私はあなたがたをほんとうに愛しています。私だけでなく、真理を知っている人々がみな、そうです」と語って、真理である方、キリストを知り、キリストが内に宿っている者の交わりが、どんなにか素晴らしいものであるかを思い返していた。真理であるキリストが共におられることは、聖徒たちにとって何よりの幸いである。

1、4節より手紙の本題に入るが、先ずヨハネにとっての喜びは、聖徒たちがキリストにある者として誠実に歩んでいることを知ったことと告げた。ヨハネがその群れを訪ねたのか、別の誰かが訪ねたのかは定かでないが、「御父から私たちが受けた命令のとおり真理のうちを歩んでいる人たちがいるのを知って」の大喜びであった。(4節) キリストを信じる者が「真理のうちを歩む」こととは、聖徒としての日々の歩みが、すなわち、日々の生活の全てが神の教えに叶っているかどうかが問われることである。その群れには、父なる神からの命令のとおりに従う人々がいて、その事実はヨハネの大きな喜びとなったのである。

 喜びの中で、彼は「お願いしたいことがあります」と語る。それは、「命令のとおりに真理のうちを歩む」ことを、一層心を込めて歩み続けて欲しいということであった。「・・・私たちが互いに愛し合うことです。」(5節)それは新しい命令ではなく、「初めから私たちが持っていたもの」というのは、第一の手紙でも触れられたことである。(ヨハネ第一2:7〜8、3:11、23、4:21)互いに愛し合うことは、主イエス・キリストによって明言された戒めであり、旧約聖書において、父なる神がはっきりと命じておられたものである。聖書は一貫して、神を愛することと隣人を愛することを命じている。その戒めに従うことは、神からの愛への応答として、人に求められていることなのである。
(申命記6:5、レビ19:18)

2、それで、「愛とは、御父の命令に従って歩むことであり、命令とは、あなたがたが初めから聞いているとおり、愛のうちを歩むことです」と明言する。(6節)神を愛するとは、神の命令に従うこと、神の命令は「愛のうちを歩むこと」。互いに愛することを、義務や決まりだからでなく、神を愛すればこそ、心からの従順としてするように勧めるのである。愛することは全人類にとって普遍的な課題である。そうでありながら、罪に堕ちた人間にとっては、最も難しい課題となっている。愛したいと心から願い、愛そうと心掛けたとしても、人の愛は容易く崩れ去る。その余りの脆さにたじろぐばかりである。そのような私たち人間に、神は真の愛を注いで下さったのである。

 ヨハネは第一の手紙において、「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです」と語り、更に「愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです」と語っている。(3:16、4:7)神が罪ある者のために御子を遣わし、十字架の死にまでも至らせて下さったことに神の愛を見出す時、私たちは愛を知り、愛に生きることが可能となるのである。もし、愛されることだけを求め、愛することを学ばないとしたら、私たちは神を知ったとは言えず、神を信じたとも言えないことになる。ヨハネはそれ程の思いを込めて、「愛する者たち。神がこれはどまでに私たちを愛してくださるのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです」と語っていたのである。(4:9〜12、16)

3、私たちが、「私はイエス・キリストを信じています」と信仰を告白する時、確かにキリストを罪からの救い主と信じているかどうかが、何よりも大切である。しかし、その信仰が単なる頭での理解に止まっているなら、それはまた大きな問題である。ヨハネが「真理のうちを歩む」とか、「愛のうちを歩む」という表現で語ろうとしたことは、信仰が生活となっているか、その人の生き方の全般に反映されているかを問うことにあった。キリストを信じたなら、その教えを行っているか・・・である。ともすると、信仰は信仰、生活は生活と分かれ、日々の振る舞いが疎かになるのは、昔も今も似ているのである。

 主イエスご自身、その点について繰り返し語っておられる。「あなたがたは、地の塩です。・・あなたがたは、世界の光です。・・」(マタイ5:13〜16、7:24〜27)「先生。何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか」と尋ねた律法の専門家には、たとえ話を通して、「あなたも行って同じようにしなさい」と、隣人となることを命じられた。(ルカ10:25〜37)そして羊と山羊のたとえ話では、「あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです」と「・・・しなかったのは、わたしにしなかったのです」と、その大きな違いを明にしておられる。(マタイ25:40、45)

<結び> 私たちは今一度、私たちの信仰が現に生きて働くものとなるよう祈りたい。そのように導かれるように、そして祝福された歩みへと向かわせていただけるようにと。「命令のとおりに真理のうちを歩む」人となり、その命令に従って「愛のうちを歩む」ことを導かれたいのである。神が私を愛して下さっていることを、日々に思い新たにされることや、一日の内にも繰り返し神の愛を思うことによって、私たちは「愛のうちを歩む」ことが導かれるに違いない。

 それと共に、自分の周りにいる人や遠くにいる人など、心にかかる人や祈りに覚える人々のことを意識的に思い巡らすことも大切である。そうする時、互いに愛し合うこと、また愛のうちを歩むことが身近になるのではないだろうか。教会はそのようにして神の愛を表すことを求められており、互いに愛し合う交わりとして世に送り出されているのではないだろうか。私たち一人一人は小さく、取るに足りない者であっても、真理であるキリストが教会を導いておられるので、私たちはその愛に満たされて歩むことができるのである。