この第二の手紙を書くにあたって、真理を知り、真理のうちを歩んでいる人がいること、そのことをヨハネは非常に喜んでいた。教会に連なる聖徒たちが、キリストの教えに従い、互いに愛し合う交わりを築き上げているなら、聖徒たちの喜びは大きなものとなるので、ヨハネは、「互いに愛し合うこと」そして「愛のうちを歩むこと」を、心を込め、一層勧めようとした。
1、ヨハネはなぜそのように願うのかを語った。それは「人を惑わす者」が出現しているからであり、「イエス・キリストが人として来られたことを告白しない者」が大勢いるという危機感からであった。第一の手紙でも触れている「にせ教師」や「反キリスト」の問題である。(2:18以下)偽りの教えは、言葉巧みに聖徒たちに迫っていた。人は信仰についても、また行いや知識に関しても、より優れた教えとして提示されると心が揺らぎ易いものである。折角教会が成長していたにも拘わらず、偽りの教えによって損なわれ、多くの人が「出て行く」ことが起っていた。「よく気をつけて、私たちの労苦の実をだいなしにすることなく、豊かな報いを受けるようになりなさい」と勧めなければならなかったのである。(7〜8節)
語られている言葉は短く、あっさりと記されているが、そこで起っていたことは大変なこと、悲しく、悔しく、いたたまれないことに違いなかった。十字架で死なれたイエスこそ救い主、人となってこの地上を歩まれたキリストであると宣べ伝え、そう信じていた筈が、そのキリストを告白すること自体を疎かにする教えが広がっていた。イエスがこの地上を歩まれたかどうかを疑い、十字架さえ本当にあったかどうかは問わなくなる。人が理解できることが全てとなり、納得できないことから遠ざかる。彼らは教会から出て行くが、また教会のように振る舞うので、その存在は「反キリスト」となるのである。
2、「よく気をつけて」と言われるが、それは、各々が自分自身を気をつけてよく見なさいと諭されていることである。誰かが何かを言ったから、それに従うのではなく、一人一人が教えをしっかり守ること、心に刻まれた教えに従って歩むことが尊いのである。キリストを知り、真理を知った人の内には、キリストが宿っている事実を忘れてはならない。真理が内におられ、真理なる方が共に歩んで下さっているからである。偽りの教えに惑わされず、落ち着いて心から群れに仕え、互いに愛し合い、豊かな報いを受けるよう、キリストは常に共におられるのである。
よくよく注意すべきこと、それは「キリストの教えのうちにとどまる」か否かである。しばしば「行き過ぎ」が道を踏み誤る原因となる。熱心であるようでいて、キリストご自身の教えから逸れることがある。実際に教会の歴史における異端は、真面目であり、熱心で真剣であることか始まっていると言われる。いい加減や中途半端からは何の問題も起らないもの・・・。ユダヤ人の熱心、パリサイ派の律法主義なども、的外れの熱心が原因と言える。それ故に聖徒たちが注意すべきことは、キリストの教えにとどまることである。「その教えのうちにとどまっている」ことが肝心なのである。それはキリストご自身にとどまることであり、自分を誇って行き過ぎたりしないことである。(9節)
3、「互いに愛し合いなさい」という教えは、ともすると生ぬるい教え、この世を生き抜くには力強さがない・・・と思うことはないだろうか。人はいつの時代であっても、弱さより強さを、小ささより大きさをよしとして憧れ、敗北よりも勝利を求める。しかし、十字架で死なれた主イエス・キリストの教えは人間の思いを覆す。強さよりも弱さ、大きさよりも小ささ、勝利よりも敗北に裏打ちされているので、多くの人は戸惑いを覚える。初めは心を引かれても、次第にもの足りなさを感じて、その教えから逸れてしまう。それを食い止めようと何かを加え、人を引きつけようとするが、最早キリストの教えではなくなるのである。
互いに愛し合いなさいとの教えは、教会の中にあって、人の強弱はもちろん、優劣や上下を意識するなら、絶対に実を結ぶことのない教えである。従ってこの教えに反することを携えて来る者に対しては、大いに注意が必要となる。当時巡回伝道者がいて、偽教師たちの来訪もあったので、ヨハネは細心の注意を促した。(10〜11節)それは事の重大さや深刻さを物語っている。旅人をもてなす愛の行為を躊躇ったり、人を見て先ず疑いの目を向けなければならないことがあったとしたら、互いに愛することの困難さを覚えてしまうからである。しかし、聖徒たちには、徒に惑わされず、真理のうちに、互いに愛し合う歩みが導かれることが期待されていたのである。
<結び> 私たちはこの教えをどのように聞くのであろうか。今日における惑わす教えは何か・・・。また今「反キリスト」はどのような形で存在するのだろうか。明らかに異端と言われるものが現に存在する。それだけでなく、異端と言えるかどうか明らかでないものもある。「キリスト教会」と看板を掲げていても、実体は注意が必要なものもある。今日の課題は、教団としては福音的とされている教会にあっても、教えが揺れ動くことが現に起っていることである。
私たちのために十字架で死なれた方が、「互いに愛し合いなさい」と命じられたこと、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」と言われたことにとどまること、これが私たちのなすべきことである。キリストにとどまることを求め、そのキリストが語られた教えにとどまること、そこに立つことを求めたい。地上に何かを残すことでなく、またこの地上で富むことを願うのではなく、キリストの教えに従って、天に宝をたくわえることを願い、生涯に渡って忠実に歩むことを求めたい。キリストは私たちに、そのように生きることを願っておられるのではないだろうか。(マタイ6:19〜34) |
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