「愛とは、御父の命令に従って歩むことであり、命令とは、あなたがたが初めから聞いているとおり、愛のうちを歩むことです。・・・よく気をつけて、私たちの労苦の実をだいなしにすることなく、豊かな報いを受けるようになりなさい。(6…8節)ヨハネは、聖徒たちが互いに愛し合い、教会の交わりの中で豊かに報いを受ける歩みが導かれるよう心から願っていた。偽りの教えに惑わされることなく、確かな歩みを続けるようにと・・・。
1、短い手紙を書き終えるにあたり、結語は次の言葉であった。「あなたがたに書くべきことがたくさんありますが、紙と墨でしたくありません。あなたがたのところに行って、顔を合わせて語りたいと思います。私たちの喜びが全きものとなるためにです。」(12節)直接会って、顔と顔を合わせて言葉を交わしたい、それが一番の気持ちであり、そうすれば互いの喜びは溢れるに違いないと確信していた。当時の手紙のやり取りは、かなりの時間を要した。そのため思いが通じ合うには困難があった。それに比べ、直接顔を合わせて話をすることは、その場で喜びを分かち合える確かさがある。ヨハネは心からその喜びを期待したのである。(7〜8節)
書くべきこと、話したいことが山ほどあった。絞りにしぼって短く書けたのは、次には必ず会って話したいという思いがあったからであろう。その時のヨハネの年令からすると、もう会うことはない・・・という状況であったに違いない。では何故そのように書けたのか。彼はキリストにあって、常に希望を抱いて生きていたからであろう。もう会うことはないと考えるのではなく、次は会って「顔を合わせて語りたいと思います」と言って、その希望があることを告げることができた。「信仰と希望と愛」を説いたのはパウロであるが、ヨハネもまた、信仰を持って生きること、希望を抱いて生きること、そして愛に生きることを実践し、これを教えていたのである。(コリント第一13:13)
2、「顔を合わせて」と訳されている言葉は、直訳は「口と口で」という言葉である。新共同訳は「親しく」と意訳している。(「親しく話し合いたいものです。」)実際に人が人と語り合う時、顔と顔を合わせても、言葉を発しないなら会話にはならない。互いに口を開き、言葉を交わして初めて会話になる。一方が話すだけで、他方が聞くだけでも会話にはならない。正しく口と口で言葉を行き交わすことによって語り合いが成立する。(※参照:出エジプト33:11、申命記34:10、民数記12:8、エレミヤ32:4)この視点は、神ご自身が人間との関係において大切なものとしておられ、その上で人が人との関係において大切なものとするよう願っておられることである。
聖書の神が三位一体の神であることは、神ご自身が人格を持って互いに交わることを、その本質としておられることを表している。その神が人間を創造された時、人を男と女とに造られたことも、人が一人でいることではなく、互いの交わりの中に置かれたことを意図している。人が神との関係の中で生きること、そして人と人との関係の中で生きることは人間の本質的事柄なのである。それ故に「顔を合わせて語りたい」との思いは、人が決して忘れてはならない大切なことである。互いの交わりの中で喜びを共にすることは、キリストの教会にとっての本質的なこと、交わりの中で「喜びが全きものとなる」ことを決して見失ってはならないのである。
3、「・・・によろしく・・・」との結びの挨拶は、パウロも同じように記すもので、いつの時代も、どこの国でもなされるものである。そのような挨拶であるが、パウロもヨハネも、自分一人からのもではなく、自分と共にいる教会の兄弟姉妹たちからの挨拶とすることに心配りをしている。自分の周りに多くの聖徒たちがいること、天の御国を目指す信仰の仲間がいること、そうしたことに思いを馳せるのに絶好の機会が、この挨拶を記す時である。手紙の宛先の側にも大勢の仲間がいる。もちろん聖徒が一人いることの尊さは測り知れない。その尊い聖徒が、こちらにもあちらにもいるとすれば、その交わりの広がりを思うだけでもワクワクするのである。
ヨハネの傍にいた聖徒たちは、彼とともに「よろしく」を届けたいと願った。まだ見ぬ仲間をも真実な仲間と信頼できる、教会の交わりの素晴らしさがここにある。私たちはその心を大いに学ぶべきであろう。長老教会の祈りのしおりを使いながら、ヨハネやパウロのような思いで諸教会を覚えているだろうかと、いつも反省しきりである。身体は離れていても、霊においては共にいるという経験を私たちはしているだろうか。(コロサイ 2:5)私たちはその経験をしていないのではなく、気づいていないだけであろう。多くの人に祈られて今の私があること、私たちの教会があることを覚えていたい。また私たちの小さな祈りが、他の群れの歩みのために用いられている事実をも心に留めて祈り続けたい。
<結び> 「顔を合わせて」と説教題をしたが、それはただ顔と顔を合わせることではなく、「口と口で」語り合うことを意味していた。ヨハネは遠くの聖徒たちと顔を合わせ、言葉を交わしたい、そのようにしてキリストを信じる者同士の喜びを分かち合いたいと願ったのである。願わくは、私たちの教会の交わりが、そのような喜びに包まれるように祈りたい。主の日毎に顔を合わせ、言葉を交わすことがどんなに幸いなことか、どれほど大きな喜びであるか、心に刻んで歩もうではないか。もちろん何を語るかには注意を払いつつである。
何故か高明子姉妹のことを思い出し、また篠原玲子姉妹のことを思い出す。ことのほか礼拝に集うことを喜んでおられた様子が思い出される。天国での再会という確かな希望があることは何と幸いなことか。その希望があるからこそ、今この地上においても私たちは、その時その時の主ご自身との出会いを喜び、互いの出会いを喜び、また互いの語り合いを大いに喜んで、教会の交わりの中で歩み続けさせていただきたいという願いが湧き上がるのではないだろうか。 |
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