礼拝説教要旨(2008.11.02)        
たましいに幸いを得ているように
(ヨハネ第三:1〜4) 
  「長老から、愛するガイオへ。私はあなたをほんとうに愛しています。愛する者よ。・・・」(1節・・)この第三の手紙は、第二の手紙より一層私信の意味合いが濃い。しかし、この手紙も新約聖書27巻の一つとして今日まで受け継がれ、神からのメッセージとして教会はこれを受け留めてきた。私たちは神のメッセージ何か、そのことに耳を傾けてみたい。

1、ヨハネは、「愛するガイオへ」とこの手紙を書いた。第二の手紙を届けた同じ教会の信徒であったか、別の教会の信徒であったかは明らかでない。また新約聖書に登場する三人の「ガイオ」の中の、どの「ガイオ」であるかも定かではない。パウロの同行者であったマケドニヤ人ガイオ(使徒19:29)、パウロのエルサレム行きに同行したデルベ人ガイオ(使徒20:4)、そしてパウロから洗礼を受けたコリント人ガイオ(コリント第一1:14、ローマ16:23)の誰もが可能性があり、教会で責任ある働きをしていたとすると、コリントのガイオか・・と考えられる。しかし、ヨハネの伝道により信仰をもった人物とすると別人となり、特定困難ゆえ、かえって普遍性のある手紙とされたのかもしれない。

 「私はあなたをほんとうに愛しています」との言葉は、ヨハネの心からのものであった。「ほんとうに」は「真理において」また「真に」、あるいは「心からの真実をもって」という意味で、真理なる神の前に全き心をもって、あなたを愛していますと告げている。神の前に公明正大に生きてること、神の前に何らの隠し立てもなく、真心からあなたを愛していることを告げたのである。人と人の関係で、これに優るものはない。神によって自分の内が全て見通されていることを認め、その上で互いの関係を受け入れ合うこと、そんな関係があるなら、そこには全き信頼関係が生まれる。ヨハネは真理なる神にあって、心からガイオを愛していると語り掛けていたのである。

2、そしてヨハネは、ガイオのために祈っていることを告げる。「愛する者よ。あなたが、たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康であるように祈ります。」(2節))あなたのために祈ります・・・との祈りを冒頭に記すのはパウロもすることであったが、祈りによって手紙を書く者が、受取人のことをどれだけ心に掛けているかを表している。その祈りは「すべての点でも幸いを得、また健康であるように」であった。そう祈るのは、「あなたが、たましいに幸いを得ているように」と、既にたましいの幸いを得ているからこそ、全ての点でも幸いを得るように、そして健康のことでも幸いがあるようにと祈るのである。

 祈りは全人類にとって普遍な事柄である。真の神を信じる、信じないに拘わらず、人は事が起り、一大事と察知すると祈り始める。神の存在を否定する人でさえ祈りと無縁でなく、知らずして祈る。しかし、真の神を信じ、イエスをキリストと信じる者にとって、祈りはただ空しく願うことでなく、信じて願うことであり、確かな約束に基づいて祈ることなのである。ヨハネはガイオに向かって、彼がキリストを信じてたましいの幸いを得ていることを思い返し、その幸いが全てのことに及ぶように祈っていると告げた。何か辛いことがあっても、たましいの幸いに優るものはなく、その幸いによって一切を忍ぶことが導かれるからである。真の幸いが生活の全てに及ぶようにと。

3、ガイオが「たましいに幸いを得ている」ことは、多くの人が証言していた。ヨハネは、聖徒たちが彼について、「真理に歩んでいるその事実を証言してくれる」のを聞いて大いに喜んでいた。キリストを信じて歩み始めた者が、立ち止まったり、横道に逸れたりすることなく、「真理に歩んでいることを聞くことほど、私にとって大きな喜びはありません」(3〜4節)と、大喜びしていた。この思いは、神ご自身が神の子となった全ての人に対して抱いておられる思いである。聖徒となった者、聖徒とされた者が確かな歩みをすること、真理の道を歩んでいることを聞くことほど、「私にとって大きな喜びはありません」とは、ヨハネが願ったことに止まらない。神が、そして主イエス・キリストご自身が、私たちに対して心から願っておられることなのである。

 私たち人間にとって、一番大切なことは何であろう。この世での生活であろうか。この世の地位や名誉、財産であろうか。家族や友人はもちろん大切である。どんな仕事をし、どのように生きるかは人にとって大切なことである。しかし、主イエスは神の前に富むことの大切さを語られた。(ルカ12:13〜21) また「人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう」と語られた。(マタイ16:26)「まことのいのち」という言葉で表される人の「たましい」のこと、この「たましい」が救われること、「たましい」が幸いを得ること、これこそが人にとって最も大切なことである。たましいこそが神と最も親しく交わる部分であり、人の最も大切な部分だからである。そのたましいに幸いを得ているなら、その幸いがその人の全ての部分に及ぶのは、神が良しとしておられることであり、必ずや実現して下さることである。それでヨハネはガイオのために祈ったのである。

<結び> ヨハネは、「また健康であるように祈ります」と記していた。肉体が健やかであるようにと祈るのは、肉体に健やかでない部分がある時である。丈夫であるように、また良くなるようにと祈るのは、何か病気があったからと考えられる。聖徒たちにとって、たましいが健やかであることが全てのことに良い影響をもたらすこと、肉体の健康にも及ぶようにと祈りをささげることの大切さを教えられる。神は私たちが心も身体も健康であるように願っておられる。心が神に向き、たましいの幸いを得て、その上で全てのことに幸いを得るよう、手を差し伸べていて下さる。但し、たましいの幸いを得ている時、健康であること、健やかであることは、病気のあるなしに影響されないという事実も明らかと言われる。

 私たちは、自分がたましいの幸いを得ているかどうか、自分の信仰を吟味したい。主イエスをキリストと信じているなら、私たちはもう既にたましいの幸いを得ているのである。そうであるなら、その幸いを得ているように、全ての点で幸いを得るようにと私たちも祈られているのである。神が私たちのために祈っていて下さるのである。また健康であるようにと・・・。私たちは真に幸いな日々を送ることを許されていることになる。感謝をもってこの週も、そしてこの月も歩ませていただこうではないか。