使徒パウロがローマの聖徒たちに伝えたかったことの中心は、十字架の主イエス・キリストを信じて救われること、神の恵みにより、信仰によって救いに与ることの素晴らしさ=信仰によって義とされること=であった。これが福音であり、福音はいささかも曲げられてはならないと考え、正しく理解し、この福音に生きて欲しいと願って筆を執っていたのである。その筆を置く前に、キリストにあって心を一つにすることを熱く語ったパウロは、今度は心を静めるようにして自分の心の内を語った。ローマの聖徒たちへの信頼を表明し、どんな思いで福音を宣べ伝えているのか、また今どんな計画があるのかを告げ、自分のために祈って欲しいと親しく語り掛けている。(今朝は14〜21節に目を留める。)
1、初代教会において、「信仰義認」という救いの教理は、これを理解するのに私たちが想像する以上に困難があったと考えられる。ユダヤ人にとって、それまで神の義を追い求めていた仕方は根底から覆され、救いを理解したものの、異邦人が救いを喜ぶ姿は苦々しくさえ思えたに違いなかった。キリストの十字架の贖いなしに誰一人救われることはないと、頭で理解しても、心は揺れ動くのである。両者が歩み寄り、心を開くことは容易ではなかった。だからこそパウロは繰り返し語るのであるが、決して一方的にならないように、あくまでも聖徒たちを信頼して語り掛けていた。「私の兄弟たちよ。あなたがたが善意にあふれ、すべての知恵に満たされ、また互いに訓戒し合うことができることを、私は確信しています。・・・・」(14〜15節)
パウロは、ローマの聖徒たちを心から信頼して手紙を書き送っていた。信頼すればこそ「かなり大胆に」書き送ったというのである。何度言っても分からないから・・ではなく、必ず聞き分けてくれるに違いない・・と信頼して書いたのである。彼はローマの聖徒たちが「善意にあふれ」ていることを認め、彼らが「すべての知識に満たされて」いると信じた。また「互いに訓戒し合うことができることを」確信していた。これらの言葉が、もし外交辞令なら反発だけが起るのであろう。しかしパウロは、キリストの仕え人となったことにより、そのために神から恵みをいただいているので、この務めを心から果たしていると告白している。彼は常に真心から語り掛けていたのである。
2、彼の使徒としての働きの原点は、「異邦人のためにキリスト・イエスの仕え人となるため、神から恵みをいただいているからです」(16節)との言葉に表されている。ただキリストに仕えるだけでなく異邦人にも仕える、すなわち、神と人との仲立ちとなる祭司の務めを与えられている、と考えていたのである。その祭司の務めは、異邦人が救いを理解し、神との交わりに迎え入れられるように、彼らを神への供え物とすることにあると考えていた。彼らもまた聖霊に導かれて、喜んで神の前に立つことが出来るように、彼らの救いのためにこそ、自分はキリストの仕え人とされたと信じていたのである。
「それで、神に仕えることに関して、私はキリスト・イエスにあって誇りを持っているのです」(17節)と言い切るように、パウロは自分の務めに関して誇りを持っていた。神によって召され、祭司の務めを果たして来たことについて、あのこと、このことを思い巡らしていたのであろう。しかし、あれもした、これもした・・・・というのではなく、キリストご自身が、あのことも成さり、このことも成さった・・・・と、次々とキリストが成し遂げさせて下さったことを思い出すのである。全てはキリストが「この私を用いて成し遂げてくださったこと」だったと。(18〜19節)
3、パウロは、自分の働きについて思い返す時、キリストが「この私を用いて成し遂げてくださったこと以外に、何かを話そうとはしません」と心していた。「キリストがなさらなかったことは、何も話しません」ということである。語ることも、行うことも、しるしも不思議も、全て御霊の力によって成し遂げさせていただいたと、心から感謝をささげている。これまでの伝道、福音を宣べ伝えた旅の全ては、キリストが成し遂げさせて下さったことであった。実際パウロが福音を伝えたのは、エルサレムからイルリコ(ローマ領東部の西端)まで、もう少しで首都ローマに届く所にまで及んでいた。福音の伝播の勢いは目覚しかったが、それは主が成しておられたことと信じて、自分の務めを果たし続けたのである。
パウロ自身が心したことは、「他人の土台の上に建てないように」、すなわち「キリストの御名がまだ語られていない所に福音を宣べ伝えること」であった。キリストの福音を、まだ聞いたことのない人々にこそ伝いたいというのが切なる願いであった。(20〜21節)この原則をもって、パウロは福音を異邦人の世界へと広めていた。しかもキリストの仕え人として、神と人との間に立って、人にも心から仕える祭司としての務めを果たしたので、その働きは多くの実を結んでいたのである。その働きは、パウロ以後も多くの聖徒たちに引き継がれ、21世紀の今日に至っている。福音を宣べ伝える務めは、実にキリストが再び来られる時まで続けられる壮大な務めなのである。
<結び> 今朝パウロの心に触れた私たちは、今一度私たちの教会の歩みを思い返し、十字架のキリストを救い主と信じる信仰を、先ず一人一人吟味したい。キリストを信じて罪を赦され、滅びから永遠の命へと救われる、恵みの福音の確かさと素晴らしさを心から感謝したい。そしてこの福音を宣べ伝える群れとして、私たちの教会が用いていただけるよう祈りたい。
これまでの歩みを、主が成し遂げさせて下さったこととして、折に触れて思い返し、感謝をささげることが大切であろう。これからも福音を語り続けることを、主ご自身が私たちにさせて下さるに違いない。私たちの周りには、まだ福音を聞いたことのない方がおられ、聞いても聞いていない方は数知れないと言っても言い過ぎではない。だからこそパウロの心意気に触れて、私たちの福音を語り続ける心を、主によって燃やしていただきたいのである。
(※テモテ第二4:1〜2)
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