手紙を書き終える前に、パウロがなお語りたかったこと、それはキリストにある霊的な一致についてであった。キリストにある聖徒たちが、互いにさばき合うことなく受け入れ合い、互いに隣人の益となるようにするなら、そこにこそ、心を一つにして、神をほめたたえる教会の交わりが、確かに生まれるからである。しかし「心を一つにして下さい」との勧めは切実なものであった。教会の中に、一致を脅かす問題が多々あり、最も厄介な事柄にもう一度触れないわけにいかなかったのである。「こういうわけですから、キリストが神の栄光のために、私たちを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに受け入れなさい。・・・・」(7節以下)
1、紀元一世紀の教会において、一致を脅かす最も厄介な問題は、やはり異邦人クリスチャンとユダヤ人クリスチャンの対立であった。救いに関する中心点が浮き彫りになるからであり、ローマの教会も例外でなく、パウロはその問題を考慮しつつ手紙を書いていたのである。救いの最も肝心な根拠は、キリストの十字架の贖いである。ユダヤ人も異邦人も、恵みにより、信仰によって義とされ救われる。教会の中では、互いに受け入れ合うことによって、神の栄光が現されるのであって、人間同志では決して越えられない壁を、神が越えさせて下さるのである。キリストが成し遂げて下さった救いは、それ程に大きな出来事なのである。
「一致」という言葉は素晴らしいもの、その言葉の響きも良い。しかし、その言葉の素晴らしさとは裏腹に、「一致」を実現することの難しさは大きい。人が十人いるなら、十の考えがあり、その違いは、時に深刻な違いとなって表れる。違いを多様性と受け留めるのは、とても難しいことである。同じ民族であっても、生活の違い、育ちの違いだけで、互いに受け入れ合うことに困難が生じる。ユダヤ人と異邦人の違いの問題は、民族的に、また文化的に越え難い課題を持ちつつ、キリストにあって一つとされることの不思議によって、現実に乗り越えねばならなかった。きっと頭では理解しても、しばらくすると、心の中では葛藤するという揺り戻しを、教会は繰り返していたのである。
2、ユダヤ人が異邦人に対して誇ることも、反対に異邦人がユダヤ人に対して誇ることも、どちらも神の前に許されることではない。全ての人は神の前に罪を犯したので、キリストによって受け入れられない限り、神との交わりは回復されることがなかった。(3:23)キリストがこの世に来られ、「割礼ある者」、ユダヤ人に仕えるしもべとなられたのは、それに続いて、「異邦人」、ユダヤ人以外の人々も、あわれみのゆえに、神をあがめるようになるためであった。キリストがダビデの子孫として生まれられたのは、神がアブラハムに約束されたことを真実に果たされたことであり、救いの恵みが異邦人にも及ぶためだったのである。そのような神の救いのご計画は、旧約聖書において繰り返し明らかにされていた。(8〜12節)
パウロ自身、神の救いのご計画を取り違えていたことを、大いに恥じていた。主をほめたたえることは、ユダヤ人だけの特権ではなかった。ユダヤ人も異邦人も共に、主をほめたたえ、主を喜ぶことへと招かれていたのである。詩篇の言葉も(18:49、117:1)、申命記の言葉も(32:43)、そしてイザヤ書の言葉も(11:10)神をほめたたえる者はユダヤ人と異邦人の別なく、全て救いの恵みに招かれていることを明らかにしている。神ご自身は、一貫して全ての民に神の恵みによる救いが及び、ユダヤ人も異邦人も、キリストにあって救いに与ることを定めておられた。キリストだけが全世界の全ての民の、真の望みとなるお方なのである。パウロはその真理に気づいて、この望みを異邦人に伝えようと心を砕いたのである。
3、パウロは祈りによってこの段落を閉じている。「どうか、望みの神が、あなたがたを信仰によるすべての喜びと平和をもって満たし、聖霊の力によって望みにあふれさせてくださいますように。」(13節)ユダヤ人のクリスチャンも、異邦人のクリスチャンも、全ての民はキリストにのみ真の望みをかけることが出来るのである。この方以外に救いはない。そのキリストを遣わして下さった神は、「望みの神」すなわち、真の希望を与えて下さった方、「希望の源である神」なのである。この神は「信仰によるすべての喜びと平和をもって満たし」て下さる方、また「聖霊の力によって望みにあふれさせ」て下さる方である。(13節)
全てのものがやがては朽ちていくこの世にあって、聖徒たちには朽ちず、汚れることのない天の御国が約束されている。主イエス・キリストが再び来られる時、救いは完成するのである。この救いの望みに生きることは、聖徒たちにとって、真の喜びであり、真の幸いである。罪の赦しを得て生きること、これに勝る平安はない。聖徒たちはいよいよ確かな望みにあふれさせていただくことになる。そのために、今地上の教会の交わりに、キリストにある一致が豊かに増し加えられることは、何よりも尊いことである。(※8:18〜25)
<結び> 教会に喜びと平和が満ちること、また聖霊の力によって望みが溢れること、これらは、今日の私たち自身の祈りである。「望みの神」、「希望の源である神」が、この祈りに答えて下さるよう祈りを熱くしたい。そのためには、私たちなりに、一層キリストにある一致の実現のために心を尽くすことを導かれたいと願う。私たちにとって、異邦人とユダヤ人の違いの問題はない。けれども、互いに心を一つにすべき課題は尽きないのが、地上の教会の歴史の現実である。折に触れ、事につけて、「希望の源である神」を仰ぎ、神に祈り、神が教会を導いて下さることを待ち望みたい。信仰による喜びと平和、そして聖霊の力による望みに溢れた者とならせていただけるように!
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