「あなたがたは信仰の弱い人を受け入れなさい。その意見をさばいてはいけません。・・・・私たちは、もはや互いにさばき合うことのないようにしましょう。・・・・私たちは、平和に役立つことと、お互いの霊的成長に役立つこととを追い求めましょう。・・・・」と熱い思いを述べたパウロは、何よりも主にあって心を一つにしたいと願っていた。キリストの十字架の死と、死からのよみがえりによって主のものとされた者が、互いに愛し合い、支え合い、互いに認め合って教会を建て上げるのは何よりも尊いことだからである。罪から救われ自由とされたのは、もはや他者を他者とせず、隣人として愛することに向かわせられるためであった。
1、パウロの勧めは続いた。「私たち力のある者は、力のない人たちの弱さをになうべきです。自分を喜ばせるべきではありません。私たちひとりひとり、隣人を喜ばせ、その徳を高め、その人の益となるようにすべきです。」ここで「力のある者」「力のない人」というのは、信仰の強弱や優劣に関することではなく、信仰における経験や理解の違いに関することである。一人一人の経験や理解には確かに差が生じるからである。主を信じて間もない者と信じて十年以上を経た者との違い、また教会や社会で担う役割と責任の違いは、決して小さなことではない。経験があり、知識や理解があり、大きな責任も担っているなら、その人は一層その責任を果たすよう求められるのである。教会の交わりにおいては、もし経験や理解が乏しく弱さのある人がいるなら、「力のある者は力のない人の弱さをになうべき」なのである。(1〜2節)
「自分を喜ばせるべきではありません」と言ったパウロは、「私たちひとりひとり、隣人を喜ばせ、その徳を高め、その人の益となるようにすべきです」と語って、キリストに仕え、そして人に仕える生き方は、隣人の益、隣人にとって善となることを追い求める生き方であることを示した。(※新共同訳「おのおの善を行って隣人を喜ばせ、互いの向上に努めるべきです。」)一人一人が互いに他の人を思いやり、自分の喜びより、隣人の喜びを求めて生きるなら、そこにこそキリストの教会が建て上げられるからである。それは教会に留まらず、社会全体の課題である。しかし、いつの時代も、現実はなかなか難しいようである。自分を喜ばせることを優先し、隣人を喜ばせるのは後回しにしている。隣人の徳を高めるために心を配るよりも、自分を高めることにのみ熱心に成り易い。世の中の多くの現実はそのようである。
2、キリストを信じる者にとって決して忘れてはならないのは、「キリストでさえ、ご自身を喜ばせることはなさらなかったのです」との事実である。主がこの地上を歩まれた時、どれ程の痛みと苦しみを味わわれたのか、どれ程の嘲りを忍ばれたのか、どのようにして十字架へと向かわれたのか、聖徒たちはいつも心に留める必要があった。主が歩まれたその姿を仰ぎ見る時、聖徒たちは自分の救いの確かさを思い返し、またこの世を生きる自分自身の模範を主に見出すのである。主がご自身を喜ばせることなく、ご自分の民の救いのため命を捨てて下さったのは、主を信じる者に、罪の赦しによる喜びを与え、最高の益をもたらすため、そして、その喜びに与った者が、主と同じように生きるためであった。(3節)
キリストが地上を歩まれた、その一つ一つを思い返す時、それらは旧約聖書において告げれていた通りである。詩篇の言葉(69:9)しかりであり、その他にも罪無くして十字架で死なれるメシヤの受難は、繰り返し記されていたのである。パウロの心の中には、イザヤ書53章等が思い浮かんでいたと思われる。旧約聖書全体がキリストの十字架のみ業と、死からのよみがえりを告げており、その約束が主イエスにおいて成就したことを知る時、聖書によって、忍耐と励ましを与えられ、朽ちることのない真の希望を持たせられる。聖書はキリストを証しし、キリストを信じて生きる人々に、真の生き甲斐を与える大切な書物なのである。(4節、※テモテ第二3:16〜17)
3、「聖書の与える忍耐と励ましによって」と語ったパウロであるが、忍耐も励ましも神から来る以外には有り得ない。(※励まし=慰め)教会に連なる一人一人がどのように歩むのか、神が直接介入して下さることを祈る他なかった。「どうか、忍耐と励ましの神が、あなたがたを、キリスト・イエスにふさわしく、互いに同じ思いを持つようにしてくださいますように。」(5節)祈りが単なる願望に過ぎないものなら、これ程空しいものはないであろう。神が働いて下さると信じるから、また神が確かに働かれるからこそ祈るのである。「互いに同じ思いを持つように」とは、「一つの意見になる」ことではない。他の意見を排除するのとは違って、多様な意見があってこそ、「互いに同じ思いを持つように」なること、互いに認め合い、共に主を仰ぐことである。
キリストにある一致とは、多様性を保ちながら統一性を持つところの一致である。教会をからだに例えるのはこの真理を告げるためである。そのようにして、心を一つにする時、声を合わせ、主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられるのである。「それは、あなたがたが、心を一つにし、声を合わせて、私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえるためです。」(6節)この世の誰かが誉れを得るのではなく、神がほめたたえられるところでは、画一化された一致ではなく、多様性が保障された一致が尊ばれる。そこには互いに愛し合い、赦し合い、受け入れ合う交わりが生まれ、一人一人が互いに隣人を喜ばせ、その益を図る余裕、ゆとりが生まれるからである。
<結び> 「私たちひとりひとり、隣人を喜ばせ、その徳を高め、その人の益となるようにすべきです。」この勧めを、私たちはどのように聞くのであろうか。同じ趣旨の勧めを、繰り返し聞いているが、果たして聞き従っているだろうか、との自己吟味が大いに必要である。
隣人の益となるようにするには、私たち自身の側に「余裕」や「ゆとり」が必要と痛感する。世の中は「余裕」も「ゆとり」も、なかなか許してくれない。(電車は秒単位の遅れも許されず、今や「ゆとり教育」さえ槍玉に挙げられている。この春、中学受験をする生徒の数は5万人を越え、6人に1人が受験生とのこと・・・・。)他の人のことは顧みることなく、ただ自分の幸せを追求せよと、激しく追い立てられているのが現実である。
私たちは聖書を通して、生き方の模範を主によって示されている。主キリストが歩まれたように、私たちも歩ませていただきたい。主イエス・キリストに習う私たちの歩みを通して、主を証し出来るなら、私たちは何と幸いなことであろうか。「私の隣人とは、だれのことですか」と問うた律法の専門家がいたが、私たちはどうであろうか。どこにあっても、私たちの側からその人の隣人になることも大切!と、主イエスは語っておられる。その視点を忘れずに、隣人の益となるように生きる者としていただきたい。(ルカ10:25〜37)
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