「あなたがたは信仰の弱い人を受け入れなさい。その意見をさばいてはいけません。・・・・食べる人は食べない人を侮ってはいけないし、食べない人も食べる人をさばいてはいけません。神がその人を受け入れてくださったからです」(1~3節)と語り始めたパウロは、「私たちの中でだれひとりとして、自分のために生きている者はなく、また自分のために死ぬ者もありません」と言葉を続けた。そして「生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです」と明言した。キリストは、私たちをご自身のものとするために、十字架で死なれ、また三日目によみがえられたからである。(7~9節)聖徒たちの全ては、この事実に基づいている。その上で主は、互いに愛し合うことを命じておられたのである。(※ヨハネ15:12~13)
1、パウロの心の内には、「ですから、私たちは、もはや互いにさばき合うことのないようにしましょう。いや、それ以上に、兄弟にとって妨げになるもの、つまづきになるものを置かないように決心しなさい」という切なる願いがあった。「主イエスにあって、私が知り、また確信していることは、それ自体で汚れているものは何一つないということです」との確信があったからである。当時も今も、人は随分と身勝手に、自分の考えを他の人に押し付けるものである。「ただ、これは汚れていると認める人にとっては、それは汚れたものなのです」というだけにも拘わらず・・・・。肉を食べるか食べないかが、それ程に深刻であったが、それが主にある交わりを二分するのは、全く悲しむべきことなのである。(13~14節、※テモテ第一4:4))
聖さを追い求めたからであろうか、それともより正しくありたいと願ったからであろうか。求めや動機は間違ってはいなかったと考えられる。どこからかそれてしまい、食べ物のことで、どちらも心を痛めることになっていた。それは神の愛が見失われているからと、パウロは指摘した。「もし、食べ物のことで、あなたの兄弟が心を痛めているなら、あなたはもはや愛によって行動しているのではありません。キリストが代わりに死んでくださったほどの人を、あなたの食べ物のことで、滅ぼさないでください。」(15節)キリストの救いに与りながら、何故その愛を忘れ、互いにさばき合うことになるのだろうか。パウロは、確信のなさを指摘しているようである。「ですから、あなたが良いとしている事がらによって、そしられないようにしなさい。なぜなら、神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びだからです。」(16節)
2、キリストが十字架で死なれたのは、罪ある者を救うため、永遠の命を与え、新しい命に生きる道を開くためであった。罪人にとって、自分では決して成し得ない救いを、キリストが成して下さるのである。それこそ「飲食のことではなく」、「義と平和と聖霊による喜び」である。神によって義とされ、罪を赦された者に与えられる神との平和は、何ものにも代え難い。救いに与った者の心に満ちる喜びは、「聖霊による喜び」である。地上のいかなるものにも左右されない「神の国」に、聖徒たちは既に入れられている。救いの確かさ、素晴らしさ、キリストの愛の測り知れなさこそ感謝して、キリストに仕え、人にも仕えること、これが聖徒たちの進むべき道なのである。(17~18節)
「そういうわけですから、私たちは、平和に役立つことと、お互いの霊的成長に役立つこととを追い求めましょう」とパウロは勧める。(19節)平和そのもの、または平和にすること、そして建てること、建て上げて強固にすることを求めよ!と勧めている。一人一人がどれだけ、そのような視点で生きているか、また教会の交わりそのものが、そのことを尊び、互いに愛し合うことを追い求めているかを問うている。教会がそのように生きる時、教会に連なる一人一人は、世に遣わされ、その遣わされた所で、平和と建徳のために用いられる存在となるのである。そのためにこそ、パウロは「追い求めましょう」と熱い思いで語っている。
3、人はしばしば、余りにもその逆を生きるからである。建て上げるよりも壊すことへ向かうのは、ローマの聖徒たちも例外ではなかった。さばき合うことを求めたわけではなかったであろう。けれども、食べ物をめぐって、神のみわざを破壊することになり、他の人の弱さを思いやれず、つまずきを与えることに無頓着になっていた。確信のなさ、また疑いや迷いがあったのであろう。そのために、他を批判して自分を守ろうとする。そのような時、大切なことは、他の兄弟の「つまずきになることはしない」と心に決めることである。自らの信仰によって、神の前で自分の生き方を導かれ、自分が何を食べ、何を語り、どのように振舞うのかを決めることが許されているのである。「あなたの持っている信仰は、神の御前でそれを自分の信仰として保ちなさい。自分が、良いと認めていることによって、さばかれない人は幸いです。」(20~22節)
迷うことはあり得る。確信が揺らぐこともあるであろう。しかし、パウロはあえて、「しかし、疑いを感じる人が食べるなら、罪に定められます。なぜなら、それが信仰から出ていないからです。信仰から出ていないことは、みな罪です」と言い切った。(23節)はっきりとした確信がないこと、また人の目、人の評価を気にする恐れが問題を大きくしているからである。キリストは、信じる者に自由を与えて下さるために、十字架で死なれたのである。信仰によって救いを与えられた者は、真の自由を得させられたのである。全ての聖徒たちは自由を得た者として、信仰による確信をもって歩んでよいのである。平和と建徳をこそ追い求める者として。
<結び> 新改訳聖書が、19節を「そういうわけですから、私たちは、平和に役立つことと、お互いの霊的成長に役立つこととを追い求めましょう」と訳したのを、新共同訳は、「だから、平和や互いの向上に役立つことを追い求めようではありませんか」と訳している。(※文語訳:「然れば我ら平和のことと互いに徳を建つる事とを追求むべし。」)神との平和を与えられた者が、この世で平和を求めることは、何としても果たすべき使命である。先ず地上の教会で、そして、それぞれが遣わされている所において、平和を追い求めることが、今日の課題である。また互いに徳を建て合い、内面を高め合うことは、教会においてこそ果たされることである。主が共にあって、私たちを導いて下さるからである。教会で整えられ、世に遣わされることは、今日益々大きな務めとなっているのではないだろうか。主が私たちを導き、造り変え、建て上げてて下さることを良しとし、課せられた務めを果たしたいものである。
平和と建徳を追い求めるのは、決して自分のためではなく、キリストに仕え、人に仕えるからこそである。キリストは、私たちをそのように世に遣わし、世にあって証し人となるよう求めておられる。確かな信仰を与えられ、前進させていただけるよう祈りたい!! |
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