「あなたがたは信仰の弱い人を受け入れなさい。その意見をさばいてはいけません。・・・・食べる人は食べない人を侮ってはいけないし、食べない人も食べる人をさばいてはいけません。神がその人を受け入れてくださったからです。」(1〜3節)と語ったパウロは、救いに与った聖徒の一人一人が、恵みによる救いを喜ぶこと、生きる全てにおいて、神への感謝をもって生きるよう教えようとしていた。神が一人一人を受け入れ、立たせて下さっていることを覚え合うことは、教会の交わりにおいて、何よりも大切だからである。
1、パウロの熱い思いは、「私たちの中でだれひとりとして、自分のために生きている者はなく、また自分のために死ぬ者もありません。もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。」(7〜8節)との告白に込められた。全てのことを「主のために」生きる者にとって、もはや「自分のために」生きる部分はないと。「自分のために」死ぬことさえなく、生も死も一切は「主のために」というのが、聖徒たちの生き方だからのである。
神に背を向けた人間の生き方の特徴は、一言で言うと「自己中心」である。自分を「神」とするかのように、全てのことを自分の思いのままにしたいと考える。自分が生きたいと願うから生きる、死にたいから死ぬとばかり・・・・。しかし、キリストによって罪を赦され、キリストにあって生まれ変わり、新しい命に生きるよう変えられた者は、もはや自分のために生きる者ではなく、キリストのために生きる者と変えられている。救いに与った者にとって、この絶対的な変化、生まれ変わりの事実を、はっきり認識することが大事である。聖徒たちにとって、「私たちは主のものです」との認識が、その人の生き方を決定的に定めることになるからである。
2、キリストにある聖徒たちにとって、この決定的な生き方の変化は何によっているのか。何があったので、この変化がもたらされるようになったのか。聖徒たちは、絶えずその原点に立ち返る必要があった。キリストの生と死が、いや死と生がその原点なのである。十字架で死なれ、しかし、その死からよみがえられた方、この主イエス・キリストがおられることが、聖徒たちにとっての原点、土台なのである。既に死んでこの世を去った人にとっても、今生きている人にとっても、キリストは「主」であられる。キリストは全ての人の生と死を支配しておられる方であり、一切を支配するため、死んでよみがえり、今生きておられる方なのである。(9節)
罪人を救うために世に来られたキリストは、十字架で身代わりの死を遂げるために生まれた方である。罪のない生涯を歩まれたのは、罪なくして死ぬためであった。そして死によって罪の代価を支払われた後、三日目に死からよみがえられ、キリストを救い主と信じる者に、罪の赦し、永遠の命を与えて下さった。キリストを主と信じる者を神の子とし、救いの恵みに入れて下さったのである。測り知れない代価を払われて、滅びからいのちへと移されたのが、聖徒たちである。この恵みと幸いを、聖徒たちは忘れてはならない。救われたのは、実に「恵みのゆえに、信仰によって」であることを。(エペソ2:8)
3、キリスト者=クリスチャン=とは「キリストにつく者」、「キリストのもの」という意味がある。キリストご自身が、キリストを信じる者を「ご自分の側にいる者」、「わたしのもの」として下さっている。パウロの指摘は、「キリストのもの」とされた者が互いにさばき合うのは、あってはならないこと、とんでもない越権という点である。その越権行為は、「神のさばきの座」で問われるのである。兄弟をさばき、また兄弟を侮ることは、兄弟を生かしておられる神に対する侮りとなることを忘れてはならない。神ご自身は「わたしは生きている」と宣言しておられるからである。(10〜11節)
「こういうわけですから、私たちは、おのおの自分のことを神の御前で申し開きすることになります。」(12節)パウロは、全ての人がやがての日、神のさばきの座に立たせられることを知って生きるのか、それとも、知らずに生きるのか、その違いは決定的となることを警告している。これはキリスト者であるなしには無関係である。全ての人にとって、さばきは公平である。だからこそ神を恐れる者、キリストにある者は一層心を低くして生きるよう勧められている。自らの心の中で確信を与えられたなら、その確信を持って生きることが大切である。私のために死んで、生きられた方、キリストがおられるゆえに、「私は主のものです」との信仰に生きる者は、真に幸いな人である。
<結び> キリストを信じ、キリストに従って生きようをするなら、決して忘れてはならないことがある。それは、キリストが十字架で死なれ、三日目に死からよみがえられた事実である。初代教会において、十字架と復活は信ずべき事柄の中心であり、9節は信仰告白の言葉と考えられている。クリスチャンは何を信じているのかと問われるなら、キリストの十字架の死は、私の罪の赦しのための身代わりの死であり、キリストのよみがえりは、私に真のいのちを与えるためのものであると信じているのがクリスチャンである。その人はもはや自分のために生きているのではなく、主のものとして、主のために生きているのである。「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し、私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです」(ガラテヤ2:20)と、パウロが告白するごとく。
私たちのために身代わりとなって死なれた方、しかし、よみがえって生きている方がおられると信じる信仰を、今一度再確認し、生き方を整えられたい。ご自分のいのちを捨てて、私たちを救って下さった救い主がおられるとは、何と幸いなことか。この救いに与った者が教会の交わりを通して一層その信仰を固くされ、感謝をもって日々の歩みを導かれるよう祈りたいものである。
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