礼拝説教要旨(2007.01 07)  
                 さばいてはいけません           (ローマ14:1〜6) 

使徒パウロは、ローマの聖徒たちに、キリストによる救いを明らかにし、この福音に生きるようにと手紙を書き送っていた。12章からは、キリストにある者がこの世で生きるにあたり、教会の中で、そして実際の社会の中でどのように生きるかを熱く語った。クリスチャンは、もはやこの世の者ではないが、この世に遣わされた者である。終わりの日の救いの完成を望み見るからこそ、今を大切に生きるよう導かれる・・・・と。手紙はこれで一段落したようである。しかし、当時の教会内の具体的な課題について書き送る必要があった。それは教会内の霊的な一致の勧めであった。

1、初代教会における最もやっかいな問題は、信仰義認に関する意見の衝突であった。キリストの十字架の贖いを無にする信仰の理解は、何としても避けなければならなかった。けれども、それだけでなく律法主義の落とし穴、禁欲を尊いとする考え方など、信仰の優劣や強弱を言い始める様々な問題があった。その内で偶像に供えたものを食べるか食べないかは、教会内に大きな課題を突きつけていた。教会の中には、肉は決して食べない、それ食べると偶像礼拝の罪を犯すからと信じる者があり、他方、肉を食べてもよい、偶像の神など世には存在しないのだからと言い切る者がいたからである。(1〜2節)

 両者の考え方の違いは、あってよいこと、優劣や良し悪しをつける必要のないこととパウロは言う。「信仰の弱い人」とは、「肉を食べてはならない」と律法主義的に信仰を捉えている人のことで、信仰によって自由とされたことを誇る人々から、「その意見」をさばかれていた。問題は「食べ物」に止まらず、「日を守る」ことにも及び、ユダヤ人が特別の祭りの日や季節を守っていた習慣を引き継ぎ、教会でも安息日や断食の日などが重視されていた。大切なことは、互いに相手の意見を受け入れ合うことであった。にも拘らず、互いにさばき合い、退け合っていたのである。(3節)

2、キリストにある聖徒たちが心すべきこと、それは、肉を食べる人も食べない人も、日を守る人も守らない人も、どちらの人も「神がその人を受け入れてくださった」事実である。教会の中でさばき合うことがあるとすると、それは、神ご自身の領域を侵すことになる。パウロが一番強調したかったのはこのことである。「あなたはいったいだれなので、他人のしもべをさばくのですか。しもべが立つのも倒れるのも、その主人の心次第です。このしもべは立つのです。なぜなら、主には、彼を立たせることができるからです。」(4節)教会のかしらは主イエス・キリストであり、一人一人が僕として迎え入れられ、主によって立たせていただいているのである。

 パウロは、一人一人が信仰によって立つことを、何よりのこととして勧めている。安息日については、土曜日を安息日として守ることから、しだいに日曜日を安息日として守るようになって行ったと言われる。けれども、その移行には、かなりの抵抗があったと推測できる。両方の意見が交錯する時、大切なことは、「それぞれ自分の心の中で確信を持ちなさい」ということである。決して独善にならず、理性をもって、自らの判断を下すなら、その確信に立って生きるよう勧められている。その時、その人は「主のために」生きているか否かが全てとなる。パウロは「主にあって」という表現をよく使っているが、ここでは、「主のために」と訳せる表現である。聖徒たちの生きる全ては、「主のために」感謝をもって生きているか、それが肝心なのである。(5〜6節)

3、長い教会の歴史において、教会内の霊的な不一致が教会を苦しめているのは事実である。食べ物をめぐっての自由については、食べ物以外にも及び、日をめぐっては、「安息日」を厳守するか否か、今日も問題は解決しているとは言い難い。キリスト者にとって、「自由」は独善の落とし穴に紙一重で陥りかねない、緊張を強いられるテーマである。何を食べるか、何を飲むか、私たち一人一人、主のために、全てのことを感謝して生きるよう求められている。何を大切にするのか、どのようにして主に仕えようとしているのか、主が私を受け入れて下さっていることを感謝しているか、私たちの心の内が問わている。

 肉を食べるかどうかは、今日は偶像礼拝の問題ではなく、ほとんど健康上の問題となっている。代わりに飲酒の問題は、今も問われることが多い。日本の多くの教会が飲酒に否定的であるのに対して、キリスト者の自由を根拠に飲酒を認める立場がある。食べる食べない、飲む飲まないに関連して、真面目か不真面目かを問うてしまうことが、問題をややこしくしている。初代教会においても、律法主義的に生きようとする人々は、信仰を真面目さや敬虔さで量ろうとしたのであろう。そのために「さばいてはいけません」と諭される。キリストにある自由は、実に恵みにより、信仰によって与えられるからである。

<結び> 「さばいてはいけません」との教えは、主イエスによって繰り返し語られている。(マタイ7:1以下、ルカ6:37以下)恵みにより、信仰により救いに与る者にとって、神によって罪を赦された恵みは、決して忘れてはならない。当然滅ぶべき自分が救われたこと、その測り知れない恵みは、他の人にも及んでいることを知って、共に喜び、感謝をもって、共に主に仕えるのが教会である。従って、救いを喜ぶ者は、いよいよ心を低くして、互いに受け入れ合うことを学ぶよう、主ご自身が期待しておられる。パウロはこの期待に応えられるようにと、ローマの聖徒たちを励ましていたのである。

 私たちも主によって期待されている。その期待に応えさせていただきたい。私たちには、何度教えを聞いても、なお互いにさばき合う過ちを犯しすことしばしばの弱さがある。だからこそ、主イエスのお心に触れ、主の限りない恵みとあわれみに心を動かされたいと願うのである。主が私を受け入れ、私を立たせて下さっていることを知って、教会の交わりの中で、互いに愛し合い、赦し合い、受け入れ合う交わりを、感謝をもって築かせていただきたいと心から祈りたいものである。