平和をつくる者の幸い (マタイ 5:1〜12)
主の2007年、礼拝をもって迎えられたことを、先ず主に感謝したい。過ぎ去った一年の恵みを数え、来るべき一年の恵みと導きの数々を期待できるのは、真に幸いなことである。しかし、本当に本当の幸いを生きているかどうか、これは重大事である。この世には余りにも見せかけの幸せが溢れ、偽りの幸せに心引かれるばかりだからである。年の初めにこそ、私たちは、真の幸せは何か、思い新たに心に刻みたい。
1、主イエスは、山上の説教の中で、神の民の幸いを語っておられる。それは「天国市民の幸い」と理解されている。この世の民が考える幸いとは相容れず、全く正反対のものである。「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。」(3節)貧しさが幸いに通じる考え方は、この世には存在しないと思える。けれども、心の貧しさこそ、神の前に助けを求めるために必要なもの、自分の弱さや欠けを認めるためには、自分の貧しさを知るほかないからである。また、「悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから。・・・・。」(4〜6節)これら全ては、心を見ておられる神の前に、あなたはどのように生きていますか、との問と結びついている。神の前に遜った心で生きる者が、神によって報われる幸いな人である、と主イエスは明言しておられるのである。
2、神から報いを受けた者は、心を満たされ、自分の周りの人の必要に目が向く人となる。その人は一層神からの報いを受ける。「あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるから。」(7節)心を清くされ、益々神ご自身のみ顔を仰ぐことが許される。そして、平和をつくる者、神の子どもとして歩む幸いに導かれる。たとえ神の子どもの歩みに迫害が及ぶとも、「天の御国はその人たちのものであるから」と、天国での報いが約束されている。(8〜10節)この世でのことが全てではなく、天国に続くいのちこそ、神に造られた人間にとって最も大切なものなのである。それ故に神の民の幸い、天国市民の幸いとは、何よりも天の御国に招き入れられることである。この世でどれだけ人々にののしられ、嘲られたとしても、天の神はご自分の民を確かに守り、必ず御国に招き入れて下さるのである。(11〜12節)
3、私たちがこの本当の幸いに生きているなら、この世でどのように生きることが求められているのだろうか。主イエスが語られたことの一つ一つが大切である。けれども、あえて一つ、「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから。」との言葉を、この年の初めに心に留めたい。私たちは「平和をつくる者」として歩んでいるだろうか、との反省や自己吟味を込めてである。神との平和を出発点として、身近な人との平和、組織や団体の中での平和、更には国と国との平和に至るまで、神の民が本当に「平和をつくる者」として生きているか否か、それは私たちが気づいている以上に大きいことである。(※イラクで戦闘が泥沼化するのを見るにつけ、神の民が「平和をつくる者」として生きているのだろうか、という思いを強くさせられる。)
<結び> 12月30日(土)午前6時頃(日本時間正午頃)、イラクのフセイン元大統領の死刑が執行された。死刑確定後、四日目であった。その数日前、25日(月)に日本で4人に死刑が執行されたと報道された。前法務大臣が死刑執行の書類にサインをしなかったので、溜まっていた案件を処理するかのように・・・・。昨年日本では、死刑宣告が、資料のある昭和54年以降最多となる45人に下されたという。凶悪化する犯罪に対して、厳罰を求める世論が後押ししているとのことである。(死刑が確定したのは新たに20人、確定死刑囚は現在計94人。)なぜこのようなことを言うのかというと、人のいのちに対してもっともっと敏感でありたいと、つくづく思わされるからである。死刑は国家による殺人であると、死刑廃止を訴える人々がおられる。他方、日本では戦争の足音が聞こえ、その足音は次第に大きくなっている。戦争ほど、人のいのちを粗末にするものはないと、学習したはずにも拘わらずである。(今政治家たちの中に、「国のために進んで死ぬ若者がいない」と平然と嘆く人がいることが、時々報道されているが、それこそ見当違いである。)
だからこそ、私たちは「平和つくる者」として、本当にそのように生きることが求められている。口先だけにならず、また頭の中でだけにならず、本当にいのちを尊び、人のいのちは神からのもの、神に生かされているいのちだからこそ、互いに尊び合うことを身に着けるのである。そのようにして、確かに神の子どもとして生かしていただきたい。平和をつくる者の幸いを確かに生きるために。