礼拝説教要旨(2006.12 31)  
幼子のいのち      (マタイ 2:12〜23)

 幼子イエスの誕生は、羊飼いたちには「救い主の誕生」という「喜びの知らせ」として告げられ、博士たちには「ユダヤ人の王の誕生」として知らされた。羊飼いたちも博士たちも、幼子のイエスを、救い主であり、王であるお方として礼拝する喜びに与ったのであった。彼らは、神が告げて下さったことの確かさを知り、また神の約束の確かさを知って、益々神を崇め、神を賛美する信仰に進み、神に聞き従う者として歩み始めたのである。私たちはどうであろうか。クリスマスの季節に確かに救い主にお会いしただろうか。イエス・キリストに一層お従いする信仰へと踏み出したであろうか。今朝は、誕生後の幼子について記されていることに目を留め、神の守りの確かさを学んでみたい。

1、東方の博士たちが「別の道から自分の国に帰って行った」時、エルサレムではヘロデ王が苛立っていた。しかし、何事かが起る前に、神ご自身はみ使いを遣わし、ヨセフに、「立って、幼子とその母を連れ、エジプトへ逃げなさい。・・・・」と命じておられた。主は、ヘロデが何を考え、何をするのかを見通しておられた。ヨセフは直ちに行動を起こした。主ご自身の幼子に対する守りは万全であった。ヨセフという神の前に正しく生きようとする人物を備え、神に聞き従う柔らかい心をヨセフに与えておられた。救い主を世に遣わされた神は、救いのご計画を確実に成し遂げるため、一切を支配しておられたのである。(13〜15節)

 ヘロデは、博士たちからの知らせのないことに腹を立て、ベツレヘムとその近辺の「二歳以下の男の子の殺害」を命じた。星の出現から時間を割り出し、そうしておけば自分の王位は安泰・・・・と考えた。余りに残虐で、冷血極まりないものであるが、その殺害は実行されてしまった。至る所から嘆きの声、悲しみの叫びが聞こえた。しかし幼子イエスは既にエジプトへと逃れ、安全であった。やがてヘロデが死ぬと、主は、そのことを知らせ、イスラエルの地に帰るようにと命じられた。(ヘロデの死は紀元前4年のこと)ヨセフはその命令に従い、イスラエルの地に戻ったが、幼子のいのちの危険は、なお拭い去ることは出来なかった。(16〜21節)

2、神のみ守りが万全であっても、ヨセフとマリヤにしてみると、その全貌が見えるわけではなかった。目の前の恐れや不安は重く圧し掛かるばかりである。ヘロデの子「アケラオ」がユダヤを治めている事実は、幼子になおいのちの危険があると、恐れが膨らむのである。主はその心配に目を留めておられる。その恐れがあるなら・・と、ガリラヤの地方に退くことを導いて下さるのであった。そして、その導きもまた、主のご計画の全てに含まれており、ナザレに住むことも、単なる偶然ではなく、主の約束、主のご計画の実現の一端となるのである。(22〜23節)

 神が全てを良いようにして下さるので、私たちは何も心配しなくて良い!と言われて、ただそれだけで、もう何も心配しません!と言える人は希であろう。目の前のことで、心が騒ぎ、うろたえるのが普通である。きっとヨセフもマリヤも大いにうろたえ、慌てふためいたに違いない。しかしこの二人は、マリヤの胎に男の子が宿る前から、神に選ばれ、神に見守られていた。み使いがマリヤに現れ、ヨセフに現れして、二人は主のご計画を知らされて来た。幼子のいのちは胎内で育まれ、誕生の日を迎えたのである。それら全てを振り返ることによって、二人は神の守りの確かさを知ることが出来た。心騒いでも、神のみ守りに立ち返って、落ち着くことを繰り返したのであった。ヨセフの迅速な行動に、それを見出すことが出来る。
3、この世の権力者の力が如何に強力であるか、私たちは意外と鈍感であるかもしれない。残忍な王ヘロデが、二歳以下の男の子を皆殺しにせよと命じた時、これを逃れられるのは不可能に近かった。実際に殺されたのは20人位と推測されるが、ヘロデにとっては、何の躊躇いもないことであった。その子アケラオの残忍ぶりは、父以上とも言われ、ユダヤの地に帰っても、ヨセフが恐れたのは当然であった。今日、私たちがこの世の様々な圧迫を恐れてしまうのも、あながち無理ならぬことなのであろう。この世で不条理と思える難題は、今日も尽きないからである。

 けれども私たちは、神が幼子とマリヤとヨセフを守られたその事実から、神の守りの確かさを知ることが出来る。神はヨセフに、恐れなく勇敢に立ち向かえ!とは命じておられない。ひっそりと息をこらえて潜んでいよ!とも言われなかった。そうではなく、必ず「逃れの道」を示された。直接の対決を全く避けるかのように、成すべきことを示しておられる。それは逃げ回るだけでなく、約束の預言が成就することとしてであった。神のご計画は不変で揺るがず、幼子のいのちは絶対的に守られていたのである。そのいのちは、十字架で身代りの死を遂げるまで、何ものにも妨げられることなく、育まれ、守られるのであった。私たち罪人を愛し、罪人を救うためにみ子を遣わされた神は、幼子イエスのいのちをしっかりと守り、育まれたのである。(※ヨハネ3:16〜17)

<結び> 幼子イエスは、いのちの危険も何もなく、健やかに育ったわけではなかった。人と成られた神のみ子は、私たち人間と同じように成られ、私たちと同じ弱さを担って、この地上を歩まれた。いのちを脅かされ、いのちの危険に直面しながら、神のみ手に守られ、導かれ、危うきからは逃れて、地上の生涯を歩まれた。逃げて逃げて、逃げ回っているかのようであるが、神の守りは不変で、確かであった。私たちに対する神の守りも、これと同じと知ることは大事である。戸惑いがあっても、主の導きと守りの確かさに立ち返ることである。うろたえること、しばしばであったとしても・・・・。

 確かに人の一生には、長い短いがある。濃い薄いもあろう。二歳未満で殺されてしまったベツレヘムの幼子たちは、何のために生まれて来たのかと問うなら、その答えは、私たちには出せないであろう。神のみぞ知り給う! この世で様々な災害が起る度に、「なぜ?」との問いが繰り返されるが、神への背きの罪の故に、全ての人に死が及ぶことと決して無関係ではない。死は全ての人に必ず臨むものである。それ故、生きている者は、今生きている事実を悟り、生かされているいのちの尊さを覚えることが肝心である。生きている限り、神の守りは確かで、神の恵みは十分に注がれているからである。神の守りの確かさを知って、この年を終え、新しい年を迎えたいものである。