礼拝説教要旨(2006.12 24)



王なるイエス (マタイ 2:1〜12)
預言の成就であった救い主の誕生の出来事は、その夜の内に野原の羊飼いたちに知らされた。羊飼いたちはすぐさま出掛けて、マリヤとヨセフ、そして飼い葉おけのみどりごを捜し当てた。彼らは、見聞きしたことの全てが、告げられた通りだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。その喜びはいかばかりであったろうか。母マリヤは全てのことを心に納め、思いを巡らしていたが、そのマリヤの記憶と証言が、救い主誕生記事の主要な取材元であったと考えられている。マタイの福音書には、誕生から少し時間を経た出来事が記されている。東方の博士たちの来訪のことである。
1、東方の博士たちの来訪についても、聖書はこれを歴史的に、確かな出来事として記している。「イエスが、ヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、見よ、東方の博士たちがエルサレムにやって来て、こう言った。・・・・」ヘロデは巧みにローマに取り入り、紀元前40年に元老院から「ユダヤの王」の称号を贈られた。3年後からその統治が始まり、紀元前4年までユダヤの王として治めた。ローマの傀儡政権でありつつも、その権力を誇り、「ヘロデ大王」として知られている。純粋なユダヤ人ではなかったため、人々の歓心を引こうと、見るからに荘厳な神殿を修復した。けれども、それは上辺だけのきらびやかさで、ヘロデの存在は、民にとって決して好ましいものではなかった。(1節)
そんなヘロデの所に来て、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。私たちは、東のほうでその方の星を見たので、拝みにまいりました」と告げた。恐れ惑ったのはヘロデであり、町中の人々であった。王の地位を守るのに必死なヘロデは、次々と政敵を殺して(身内さえも)、自分を守っていた。自分の知らない所で王が誕生したなど、断じて許せないことであった。ヘロデの残忍さを知る民は、何が起るかと怯えるのは当然である。しかし博士たちに、全くためらいはなかった。ヘロデが如何に残忍で残虐であろうと、「その方の星を見たので、拝みにまいりました」と。新しい王を拝したかったのである。そのためには、今王である者の前に進み出るのみと考えたのであろう。(2〜3節)
2、博士たちが、王を拝する旅に出るのに、どのような思いがあり、どのような決断があったのだろうか。旅に出るためには、通常の働きを中断する必要があること、これはとても大きなことではないだろうか。気分転換のためには、短期間の旅が有効かもしれない。しかし、博士たちの旅は、長距離、長期間となり、生活が一変することさえ覚悟する必要を覚えたに違いなかった。彼らはそのことをよしとし、王を拝し、その王に最高のものをささげたい、と旅に出たのである。遠く、バビロンやペルシャ方面からの旅であった。数日、数ヶ月ではなく、それ以上の長期の旅であったと想像出来る。
彼らにとって、王を拝することは、外交儀礼ではなく、友好関係を結ぶためでもなかった。新しい王の登場が自分たちにとっても幸いであり、この方によってこそ、世界に平和がもたらされると直感したのであろう。彼らも明らかに約束の救い主を待ち望んでいたのであり、預言されていたキリストと信じて旅をしたのである。ヘロデも早速「キリストはどこで生まれるのか」と、学者たちに問い正している。ユダヤ人の新しい王は、世界の王、民族の垣根を越えた王、真の王と知ったからこそ、全てに優先して、この方を拝したい、この方に宝を差し上げたい、と博士たちは願ったのである。事実、イエスは真の王の王、主の主にいまし、全世界の人がこの方にひれ伏すべき王である。(4〜8節)
3、誕生の地を知らされた博士たちは、ベツレヘムへと急いだ。エルサレムからは約8km、はやる思いを胸に、ついに幼子のいる所までたどり着いた。天を見上げると、「東方で見た星」が確かに彼らを導いてくれたことを、感謝と喜びをもって思い返すこととなった。飛び上がるほどの喜び!(9〜10節) 家に入り、幼子と対面した彼らは、「ひれ伏して拝んだ。」そして、「宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた。」幼子の前にひれ伏した博士たちの行為、それはただの挨拶ではなかった。あなたに従います、あなたこそ、私の王ですとの服従のしるし、宝はあなたにささげますとの心を込めた礼拝であった。(11〜12節)
彼らは、王であるイエスにお会いした。その王に仕えます、宝をささげますとの礼拝をした。王を拝した彼らの帰路は、「別の道」が備えられていた。すなわち、王なるイエスにお会いした者に、新しい道、新しい生き方が用意されているのである。彼らは、当初より地上の王、ヘロデを全く恐れてはいなかったが、真の王にお会いした後は、一層恐れなく生きる者と変えられていた。予期することなく、新たな力が与えられたのであろう。神は王なるイエスを遣わし、この方による平和をもたらされるのであるが、この方にお会いした者に喜びを与え、生きる力、生きる希望の光を輝かせて下さる。真心から王を拝する時、この王による守り、王が共にいて下さる平安へと導かれるのである。
<結び> クリスマスを迎え、その喜びを祝う度に、私たちの内に、博士たちと同じように、王を訪ねるひたむきな心があるだろうか、また王なるイエスを拝し、王に服従する者として生きているだろうか、と問われることしきりである。また博士たちのベツレヘム行きについて、エルサレムからの同行者はいなかったのだろうか、といつも疑問が湧いて来る。学者たちは、キリスト誕生の地は「ベツレヘム」と答えている。ヘロデも「わかったら知らせてもらいたい。私も行って拝むから」と語っている。それでも同行した者はいなかった。それほどに人は真理に無頓着、真の喜びに鈍感で無縁のようである。それは恐ろしいばかりである。
私たちは博士たちと共に、王なるイエスを心から迎え、心から拝する者となりたい。王なるイエスの支配を喜び、地上の王や様々な権威を徒に恐れることなく、王なる方が歩ませて下さる道をしっかり歩ませていただきたい。自分の宝をささげて、主イエスに従っているだろうか。全てをささげきる・・とは、とても言えない自分がいる。宝をしっかりと握ったまま、ほどほどにお仕えしようとする自分を見出すことが度々である。真の王なるイエスこそ、私がお仕えすべき方、この方にこそ、私は賛美をささげ、このお方にこそ従いますとの信仰を深めさせていただきたいものである。