礼拝説教要旨(2006.12 17)  
羊飼いたちの幸い      (ルカ 2:1〜21)

 イザヤを通しての神からのメッセージ、キリスト誕生の預言は、「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、・・・・」(イザヤ9:6〜7)と分かり易いものであった。けれども、その実現のためには、民はなお待ち望むのみであった。神に望みを置く人々は、約束の実現をひたすら待ち望んで、真実な信仰に生きていた。神の民イスラエルの歴史は刻まれ、この地上ではもはや国の形を失い、ローマ帝国の支配が地中海世界に行き渡った頃、およそ700年の時を経て、預言が成就する神の時が満ちたのであった。

1、紀元前31年、アントニウスとの権力争いに勝利したオクタヴィアヌス(BC63〜AD14)は、その後ローマに凱旋し(前29年)、元老院から「アウグスト」の尊称を与えられた(前27年)。彼の皇帝としての支配が確立され、当時の世界は「ローマによる平和」を謳歌した。皇帝アウグストから出された住民登録の勅令は、ローマの支配を一層強固にするためのものであった。勅令は紀元前8年頃に出されたものと考えられ、帝国全土に行き渡るには年月を要していた。ナザレの町に住んでいたマリヤとヨセフが、ダビデの町ベツレヘムへと上っていったのは紀元前6年の頃考えられ、およそ百kmの距離を二人は旅しなければならなかった。身重の妻を連れての旅は容易なものではなく、「彼らがそこにいる間に、マリヤは月が満ちて、男子の初子を産んだ」のであった。
(1〜7節)

 旅先での出産を、二人は予想しただろうか。予想外とは言わずとも、準備を整えることは出来なかった。生まれた男の子は、布にくるまれ、飼葉おけに寝かせられた。なぜ?「宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。」しかし幼子の誕生の一切は、神のご計画に従い、約束の通りに事は進められていた。ダビデの家系から、ベツレヘムで生まれること、処女からの誕生など、人が計画し、準備したとしても、到底果たせないことの一つ一つが、寸分の狂いもなく実現していた。ルカ福音書は、明らかな歴史上の出来事として、しかもベツレヘムでの誕生については、かくも不思議な計らいで預言は実現しているとして、キリストの誕生を告げているのである。(イザヤ7:14、9:6〜7、11:1、ミカ5:2)

2、その夜、ベツレヘムで、ダビデの子孫として、処女から生まれた男の子は、飼葉おけに寝かせられていた。ヨセフとマリヤは神の約束を心に留めていたに違いない。けれども、約束の子がどのように育ち、どのように神に用いられるのか、何も告げられてはいなかった。二人はただ精一杯、幼子を見守り、育てるのみであった。一方神ご自身は、この出来事を野原の羊飼いたちに知らせておられた。すばらしい喜びの知らせとして・・・・。「きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」(8〜14節)

 み使いは、この方が救い主であること、約束のキリストであり、「あなたがたのために、救い主がお生まれになりました」と羊飼いたちに告げ、飼葉おけのみどりごが、「あなたがたのためのしるしです」と明言した。なぜ彼らが、この知らせを聞かされたのか、また、彼らが信仰を持ってキリストを待ち望んでいたのか、確かなことは分からない。けれども、神は彼らを選んで、喜びの知らせを告げられた。神は羊飼いたちに目を留め、彼らを心にかけ、彼らに近づいておられたのである。「あなたがたのために」と語って、救い主の誕生を告げられた。あなた方にこそ、救い主が必要であると。そして、その救い主にお会いしようとするなら、飼葉おけのみどりごが「しるし」であると。

3、羊飼いたちとは、どのような人たちだったのだろうか。その職業について、聖書の中でよい印象を持たれてはいるが、実際には決して好まれたものではなく、かえって蔑まれたものであった。取税人や罪人と並んで、社会では疎まれていた。しかし、み使いの知らせを聞いた羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行って、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見て来よう」と互いに話し合っている。(15節)彼らの心は、神からの語り掛けに対して、全く素直で、柔軟であった。喜びの知らせを聞き過ごすことなく、「見て来よう」と出掛けた。神の救いに与かる秘訣はここにあると言える。私たちにこの柔らかい心があるだろうか、大いに問われるところである。

 急いで出掛けた羊飼いたちは、マリヤとヨセフ、そして飼葉おけのみどりごを捜し当てた。(16節)捜し当てるまでの手間や時間については、何もふれられていない。困難もあったに違いない。彼らは途中で諦めることなく、捜し続けたのであろう。飼葉おけに寝ているみどりごを見て、彼らは一層喜びに包まれた。み使いの知らせを皆に話し、神の約束の確かさを喜び合った。(17〜19節)やがて彼らは、「見聞きしたことが、全部御使いの話のとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。」(20節)彼らの心を満たしていたのは、救い主にお会いした喜びであった。神が共にいます平安だったのである。八日後、幼子はイエスと名づけられた。マリヤとヨセフは、み使いが告げた通りに従い、神のみ業の成ることを待ち望んだのである。(21節)

<結び> クリスマスの喜びとは、果たして何であろうか。確かに喜びの季節である。しかし、クリスマスの本当の喜びとは・・・・? 羊飼いたちは救い主キリストにお会いする喜びに与かった。神が自分たちに喜びを知らせて下さったことも嬉しかった筈である。けれども、それだけで、ベツレヘムに出掛けることがなかったなら、飼葉おけのみどりごには会えなかった。私たちにとっても、確かに救い主にお会いすること、お生まれになったキリストを救い主と信じることがなければ、クリスマスの喜びは通り過ぎてしまう。羊飼いたちがしたように、急いで行って、飼葉おけのみどりごを捜し当てることもまた、大切なことである。「あなたは、キリストにお会いしていますか?」

 羊飼いたちは、たった一回限りの知らせを、決して聞き逃さなかった。自分たちに知らされたこととして、キリストにお会いすることを逃さなかった。神が近づいて下さったことを喜び、救い主を拝する幸いに与かった。私たちが救い主にお会いするのに、もし一度のチャンスしか与えられないとしたら、私はどうしているだろうかと考えることがある。羊飼いたちのように心柔らかくして、救い主を捜し当てるかどうか、大いに不安がある。しかし、私たちに対しては、神は一度限りではなく、何度でも、クリスマスは毎年巡らせて下さり、救い主にお会いするチャンスを備えて下さるのである。私たちが生きている限り、キリストを救い主と信じて、喜びに与かる幸いを備えて下さっている。年毎に一層の喜びと幸いに招かれているのである。感謝をもって、今年も、罪の赦しによる救いの喜びと幸いに、豊かに与からせていただきたい。
(※詩篇95:7〜8、イザヤ55:6、ルカ19:5〜6、黙示録3:20)