礼拝説教要旨(2006.12 10)  
その平和は限りなく    (イザヤ 9:6〜7)

 イザヤ書9章6〜7節は、救い主の誕生を約束する「メシヤ預言」の一つである。預言者イザヤは、「私は主を待つ。・・・・私はこの方に、望みをかける」との信仰をもって主に仕え、預言者の務めを果たしていた。主に頼る彼に、主は確かな約束を示し、神からのメッセージを人々に届けさせておられた。「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、・・・・。」(6節)

1、主を待つことがなければ、また主の「おしえとあかし」に尋ねることがなければ、そして主の言葉に聞き従うことがなければ、「その人には夜明けがない。」(8:20)けれども、主を待つ者には、夜明けがあり、「苦しみのあった所に、みがなくなる。」「やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った」のである。(9:1〜2)神が備えて下さった「夜明け」は、来るかもしれないものではなく、既に来たもの、確かなものとして語られている。その光に照らされた民は、主の「御前で」喜びに溢れる。闇から光へ、苦しみや悲しみから喜びへ、そして争いから平和へと、神はご自分に聞き従う者を確実に導いて下さるのである。(3〜5節)

 「光」「喜び」「平和」等の言葉で言い表される、神からの確かな「救い」は、「ひとりのみどりご」の誕生によって与えられる、というのがこの預言の言葉である。「ひとりのみどりご」、「ひとりの男の子」が、「私たちのために生まれる」、「私たちに与えられる」のである。主を待つ者、主に聞き従う者、主に望みを置く者のために、約束の「みどりご」が生まれ、その「みどりご」に主権が委ねられる。(※みどりご:嬰児、生まれて間もない赤子、乳飲み子、二、三歳のこども)これは人の思いを越えている。生まれて間もない男の子に「主権」が委ねられているとは、誰も考えつかないことである。しかし主は、このようにして、民に救いを与える、光を送ると約束された。

2、「主権」すなわち「統治権」、王としての権威と権限が、その「みどりご」に与えられている。その「名」は、「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と告げられた。人の思いを越えた方、思いを越えた力を発揮される方、時に叶って助けを与え、いや助けを越えたことを成し遂げて下さる方、この方が救い主である。みどりご自身が助言者であり、神であり、永遠の父、変わることなくご自分の民を見守る方であり、平和の君、平安をもたらす王である。「みどりご」がやがて「王」になるというのでなく、「みどりご」は「王」であると、神はイザヤを通して語っておられた。

 「みどりご」を「平和の君」、「シャーローム」をもたらす「王」と告げていること、このことこそ「みどりご」の名、その性質と働きの中心と理解できる。その意味で7節が続く。「その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。今より、とこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。」神が与えて下さる「シャ−ローム」、すなわち「平和」「平安」「安心」「健全で完全である状態」が地に満ち、その状態が限りなく続くこと、これこそ、全ての人が真に待ち望むべき救いである。神はこの「平和」、この救いを、「みどりご」の誕生によってもたらして下さると約束された。

3、「みどりご」が「平和の君」と呼ばれ、「その平和は限りなく」と告げられている。この約束の「みどりご」が、ユダヤの王、ヘロデの時代にベツレヘムでお生まれになった。その夜、野原で羊の番をしていた羊飼いたちにみ使いが現れ、救い主の誕生の知らせが告げられた。「きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」(ルカ2:11〜12)およそ700年前に告げられた約束は、 ベツレヘムの飼葉おけの「みどりご」において成就した。イエスこそ「平和の君」、神の平安を人に与えて下さる救い主。この方が与えて下さる「平和」だけが、とこしえに続く真の「平和」である。

 この世で言う「平和」とは、争いのないこと、事が穏やかにおさまっていること等を指す。それは、力ある者がその権力によって統治することによって保たれている。しかし、「みどりご」によるものは、決して権力にはよらない。力にはよらず、愛によるものである。「みどりご」の存在が全ての人に和らぐことをもたらす、そのような「平和」である。幼子の前で、全ての者が、自分の知恵や力を打ち捨て、ただ幼子に仕えること、その方にひれ伏すことをよしとする。そのように、人間的な一切の権謀術数を捨て去るのである。そこには最早争いの余地はなくなる。神が約束された、究極の平和、救いの完成は、そのようなものであった。(※イザヤ11:1〜9)

<結び> 私たちは、約束された「平和」、「みどりご」が与えて下さる「平和」に与かっているだろうか。クリスマスの季節を迎えて、世間と同じように、クリスマスの表面的な喜びだけで日を過ごしてはいないか、反省を迫られる。「その平和は限りなく」と告げられているが、「その平和」を生きるのは私たちである。幼子のイエスが与えて下さる「平和」を、今日、確かに喜ぶなら、この「平和」を生きている限り喜ぶ者と、私たちがなるか否かが問われている。イエス・キリストを救い主と信じて、神から罪の赦しを与えられ、真の「平和」を与えられた者として、周りの人々に「平和」をもたらす者となって生きているかどうかである。(※日々の生活が問われる。)

 「万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。」(7節)一切は神の手の中にあり、一切の良きものは神から来るとしても、神を信じ、主のみ業を待ち望んで生きる者の証しは欠くことができない。救い主キリスト、しかも「みどりご」が与えて下さる「平和」を証しすることは、今、何にも増して求められている。力に頼り、知恵に頼り、強い者が大手を振って弱い者を退けているこの時代に、心痛む者に近づき、悲しむ者と共に歩んで下さる方、それはキリストのみである。私たちの日々の歩みがキリストを証しするものとなり、真の光を輝かせ、「平和」をあまねく広めることができるなら、何と幸いなことであろうか!