礼拝説教要旨(2006.12 3)



光なる神を待ち望む (イザヤ 8:17~9:7)
クリスマスの季節を迎え、必ず目に留め、耳にするイザヤ書の言葉がある。7章14節であり、9章6節等である。神は一貫して救い主の誕生を約束し、その約束の通り救い主キリストは世に来られたのである。この喜びの出来事を私たちは信じている。今年も確かな喜びに与かるため、今朝はイザヤ書のみ言葉に触れ、神からのメッセージに耳を傾けたい。どんな時代にあっても、揺るがない喜びをもって生きるために・・・・。
1、預言者イザヤが活躍した時代、紀元前700年の半ば頃、神の民イスラエルは既に南北に分裂し、争いを繰り返していた。北イスラエル王国は神への不信仰と退廃が進み、預言者によって、度々に渡り滅亡が警告されていた。他方南ユダ王国は、なお神のあわれみにより存続を保証されていたが、北と同じく不信仰が広がり、物質的繁栄ばかりを追い求めていた。ウジヤ王の死後、ヨタム、アハズと王位は受け継がれ、アハズ王の時、神はイザヤによって、メシヤ(キリスト)の誕生を告げられた。北からの脅威に対して、神を呼ぶことはせず、自分を過信し、他国を頼ろうとする王に、あくまでも神にのみ信頼する信仰を説くのであった。真の救いは神にあり、神が共にいますことにある!と。
預言者イザヤは、神からのメッセージを告げたものの、語る毎に空しさを味わっていた。王は聞き入れず、民も冷ややかであった。人々は目先の安泰や日々の生活の豊かさで満足していたからである。不正や退廃が進み、社会の不公平が広がっても、多くの者は満足していたので、公正を求める声はかき消され、痛みを訴える声も届かないのである。それは私たちが住んでいる今日の社会とも似た状況である。物質的な繁栄のほとんどは、見せかけだけの繁栄に過ぎない。にも拘らず人々はそれに憧れ、つかの間の喜びを求め続ける。繁栄が脆いと知ってか知らずか、徒に何かを恐れ、その恐れを紛らすのに必死となる。人々を取り巻く闇は深く、ますます暗闇に取り囲まれるのである。
2、そのような闇の中で、イザヤは主を待ち望んだ。彼は苦悩し、心挫けそうになりながら、主に期待し、主のみ業を信じた。信じたので、語り続けることが出来た。神である主は、決して目に見える形で現れることはなかった。けれども、必ずみ業を成し遂げて下さると信じたのである。主がイスラエルの民を守って下さることを、王も民も信じなかったが、彼は信じた。人々は霊媒や口寄せに頼り、神ならぬものに聞こうとしたが、真に頼るべきは、神のみであることを語り続けた。神ご自身は決して目には見えなくても、神の教えは明らかにされている。神の「おしえ」は十戒で示され、神の「あかし」は預言者たちを通して明らかにされていたからである。神の言葉に聞こうとしないなら、「その人には夜明けがない」のである。(8:17~20節)
当時の人々は「夜明け」のない闇の中に閉じ込められていた。光がなく、望みを抱くことの出来ない暗黒が、地を支配していた。それは肉体の苦しみをはるかに越えた、霊的な暗黒であり、人々の心を萎えさせる暗闇であった。「・・・・上を仰いでは自分の王と神をのろう。・・・・」神なんかいるものか・・・・という嘆きであり、自暴自棄となった叫びである。神から離れ、神の教えに聞こうとしない者は、いつの時代も、神をのろい、同時に世間をのろい、自分からはその闇から決して抜け出そうとはしないものである。暗闇からの脱出は可能なのだろうか。(21~22節)
3、真に頼るべきは、生きておられる神のみと信じ続け、語り続けたイザヤは、暗闇の先の「夜明け」を望み見ていた。国が他国によって脅かされ、苦しめられたとしても、その先に神は「大きな光」を備えて下さることを信じた。神ご自身が彼に光を見させ、確信させて下さっていた。(※アッシリヤはアラムとイスラエルを滅ぼし、一時期ユダを助けた。しかし、この時イザヤは更に大きな主の約束を望み見ていたのである。)アッシリヤによる侵攻は北王国に荒廃をもたらし、南王国もやがてその恐怖に包まれる。今一時的にアッシリヤに頼むなら、そのアッシリヤが脅威となって迫るからである。心に刻むべきは、神がもたらして下さる完全な救いである。「やみ」の中に輝く「大きな光」、「死の陰」を照らす「光」こそ民は待ち望むべきであった。(9:1~2節)
イザヤが神からの啓示を受けて語ったことは、7章に続いてメシヤの到来についてであった。神がもたらして下さる圧倒的な救いは、暗闇に光をもたらすもの、軍事力による救いではなく、それらが排除されたところの平和である。「ひとりのみどりご」、「ひとりの男の子」の誕生によって、その平和が実現するというものである。彼はこのようにメシヤの到来を待ち望み、神に望みを置き、光なる神を待ち望んで預言者の務めを果たした。目に見える望みを抱けそうにない時に、決して失望せず、かえって「光」を神に見出したのである。神に信頼する者は、闇の中にも光を見出し、困難の時にも確かな希望を抱いて歩むことが出来ると。(3~7節)
<結び> クリスマスの季節を迎えて、私たちは先ず、光なる神を待ち望む信仰を、新たにさせていただきたい。「私は主を待つ」と語ったイザヤは、神が「ヤコブの家から御顔を隠しておられる」ことを知っていた。国の将来は暗く、心頑なな民に対して、神が憤っておられることも分かっていた。それでも希望の光を、生ける神にのみ抱き続けたのである。「私はこの方に、望みをかける。」だからこそ、「やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った」と、神のみ業が既に成ったこととして預言の言葉を発するのである。私たちもこの時代にあって、神を信じ、神にこそ希望の光を見出して歩み続ける者でありたい。
人生に、どんな試練が襲っても、また国の将来にどれほど不安が漂っていようと、神にのみ信頼して、うろたえることなく歩ませていただきたい。預言者イザヤの預言は、2000年前のキリストの誕生によって、見事に成就している。この預言の成就を知らされている私たちは、一層主を信じる信仰へと招かれているのである。もし一人一人に迫る闇が濃く、苦難が深刻なら、暗黒の先にある光を確かに望み見ようではないか。神は必ず私たちを光の内に導いて下さるからである。この季節に私たちはみ言葉に触れ、ぜひとも光なる神を待ち望む信仰を固くしていただきたいものである。