礼拝説教要旨(2006.11 26)  
キリストを着なさい     (ローマ 13:11〜14)

 キリストにある者は、もはや世の者ではないが、世に遣わされている。この視点は、この世で生きる聖徒たちにとって、欠くことのできないものである。この世で責任を果たしつつ、キリストの香りを放ち、地の塩、世の光として歩むことによって、主の愛を証しし、主の栄光を輝かすことが求められているからである。そのためには、今の時代がどのような時代であるか、はっきりと認識することが、何よりも大切となる。

1、「時」を見分けること、「時代」を知ることについては、主イエスが繰り返し語っておられた。(マタイ12:38〜45、16:1〜4)「悪い、姦淫の時代」と、当時の時代を言い表された。その悪い時代は、やがて一層悪くなって、不法がはびこり、「多くの人たちの愛は冷たくなります」(マタイ24:12)とも語られた。聖徒たちは、こうした指摘を心に留めるだけでなく、自ら時代を見分け、その時代にどのように生きるのかが問われている。使徒パウロは、「あなたがたは、今がどのような時か知っているのですから」と語って、一人一人の時代認識に基づく、確かな生き方を示そうとした。(11節)

 「今がどのような時か」を知るのは、人の生き方を決定する。ただ時間の経過の下に「今」を生きるのか、それとも、造り主なる神の支配の下に「今」を生きるのか、いつまでも続く時間の連続の中にいるのか、それとも、やがて終わりが来る中にいるのか、何事もなく淡々と過ぎる時代なのか、それとも、危機的状況の時代なのか、キリストにある者は見分けなければならない。パウロは、「あなたがたは・・・・知っているのですから」と言う。聖徒たちは、この危機的な状態の後、救いの完成の日が必ず来るのを知っている。だから目を覚まして生きよ!と励ますのである。「あなたがたが眠りからさめるべき時刻がもう来ています。というのは、私たちが信じたころよりも、今は救いが私たちにもっと近づいているからです。」

2、この手紙が書かれた頃(AD58年頃)、ローマ社会は繁栄の絶頂であった。物質の豊かさの中で、必ずのように陥る退廃もまた凄まじく、そのような時代がこれ以上続く筈のないことを、聖徒たちは見分けなければならなかった。主にある者は決して世の中の悪に染まってはならず、霊的に、また倫理的、道徳的に目覚めて生きることがなければ、世に遣わされた使命を生きることは困難であった。それゆえ、パウロは、救いの完成の時が近づいていることを知って、いよいよ目覚め、「やみのわざを打ち捨てて、光の武具を着けようではありませんか」と勧めたのである。(12節)※光の武具:エペソ6:13〜18

 時代の悪さ、邪悪さを知ることにおいて鈍感であるなら、世に遣わされた聖徒としての役割を果たすことは困難となる。主イエスの十字架のみ業から30年近くの時が過ぎていた。聖徒たちの多くは、信仰を持ってから10年余りを過ぎていたと思われる。その間の社会の変化や退廃の様を、ぼんやり見つめていてはならなかった。終わりの日はますます近づき、キリストが再び来られる日は迫っていたのである。この世は一層の暗闇に陥り、不信仰や不道徳を誇るかのような中にあって、「やみのわざ」を捨て、「光の武具」を着た聖徒たちの存在が光を放つ。キリストへの信仰を言い表し、互いの愛に生きるその証しが尊く用いられるのである。

3、パウロは、いくつかの「やみのわざ」を列挙する。「遊興、酩酊、淫乱、好色、争い、ねたみの生活」は、どれも暗闇の深さを示すものである。しかし、果たして自分は無関係、全く関係無し・・・・と言えるだろうか。聖徒たちでさえ、油断するなら、たちまちその闇に陥ることを認めねばならない。今日の日本においても、私たちは紙一重のところで生きている。「やみのわざ」の落し穴は、到るところに張り巡らされ、誘惑は巧妙に迫っている。それゆえに「昼間らしい、正しく生き方をしようではありませんか」との勧めを、心に刻むことが大切となる。闇の中に潜むことなく、昼間の太陽に下に出て、照らされて生きることである。(13節)

 「昼間らしい、正しい生き方」の唯一の道は、「主イエス・キリストを着なさい」との勧めに聞き従うことである。「キリストを着る」以外に、人が正しく生きる道はない。それ程に、私たち人間は暗闇に支配され、肉の欲に心が縛られているのである。キリストに結びつき、キリストに繋がっていなければ、私たちは真の命を生きることはできないのである。「キリストを着る」ことは、キリストという看板を背負うことなのだろうか。それとも「着る」という表現は、上から着る、はおるというだけなのか。内側は同じままなのだろうか・・・・。ここで言う「着る」は、「着る」ことによって、内側も作り変える結びつきのこと、「結合」また「合体」を意味している。キリストとの霊的結合のことである。キリストとしっかりと結びつきなさい!と勧めているである。そうすれば、決して「肉の欲」に心が動かされることはない!と。(14節)

<結び> それにしても、今私たちは大変な時代に生きていると、今更ながらに思う。同時に時代の邪悪さを、果たして認識しているだろうかと問われる。随分と鈍感にされているのであろう。徒に危機感ばかりを募らせるのは間違いであろうが、やはり鈍感であってはならない。他の人を責め立てたり、只々「世の中が悪い」と裁くのではなく、自分もこの社会の一員として、世の中の悪に決して染まらず、キリストを証しすることが何よりも大切なのである。キリストの聖さ、正しさ、愛の深さ、恵みの豊かさを、私たち一人一人の生き方を通して証しすること、その証しが求められているのである。

 愛の冷えた、邪悪で暗い時代に、主イエス・キリストご自身が私たちを選び、世に送り出していてくださる。私たちの使命は大きい。この使命の大きさに押しつぶされることなく、主から知恵と力、そして愛をいただいて、世に出て行くことをさせていただきたい。「キリストを着た」一人一人が世に出て行くなら、その行く先々で、キリストの愛が表されるに違いない。私たちの愚かさや欠けのある姿のままでなく、造り変えられ、生まれ変わった者、「キリストを着た」私たちが出て行くからである。もはや「肉の欲に心を用いる」私たちではなく、「キリストを着た」私たちが用いられるために、「主イエス・キリストを着なさい」との勧めに、心から聞き従いたいものである。