礼拝説教要旨(2006.11 19)  
あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ       (ローマ 13:8〜10)

 キリストにある者は、もはや世の者ではないが、世に遣わされた者である。この世のはかない物に望みを置くことなく、真の望み、たましいの救いの完成を望み見て生きる者である。しかし、だからと言ってこの世の事柄と無関係に生きるのではない。かえってこの世で、神と人との前に、確かに責任を果たしつつ生きることが大切となる。この世の国の為政者や、法律に基づく制度や秩序に対しては、「神によらない権威はなく」との視点により、真心から従うのである。ローマの聖徒たちは、「あなたがたは、だれにでも義務を果たしなさい。・・・・」とパウロから促されていた。(7節) 私たちはこの促し、そして勧めをどのように聞いているだろうか。

1、聖徒たちは、確かにこの世で生きること、世からかけ離れることなく、しかし世に染まることなく生きることが求められている。主イエスが、「地の塩、世の光」と語られた通りである。測り知れない恵みをいただき、救いに与かったのは、神の子としての絶大な特権を受けたことによる。けれども、その特権に安住することなく、かえってこの世では義務を果たし、社会的な責任を果たすことが求められている。そのために世に送り出されている。パウロは更に勧めた。「だれに対しても、何の借りもあってはいけません。」(8節)

 「義務を果たしなさい」に関連して、「何の借りもあってはなりません」と勧めは続く。義務を棚上げしたり、無視したり、後回しにするなら、多くのことで「借り」を作ることになる。支払うべきを支払わずにいるなら、「借り」すなわち「負債」を積み上げ、大変なことになる。しかしパウロは、経済的な金銭の「負債」のことばかりではなく、目には見えない人の心の中にある思いに関しても、ここでは触れようとしたと考えられる。この地上で社会生活を営むとき、人と人との関係は断ち切ることはできず、絶えず他の人との関係に心を注いで生きるのが現実である。そのような関わりの中で、金銭の「負債」に限らず、精神的な面、心で感じる「負債」、「負い目」と考えられることにも目を向けているのである。

2、この世の社会生活において、聖徒たちは真の自由を与えられた者として、一切の負い目から解き放たれて生きるよう励まされている。金銭の「負い目」も、心の「負い目」もなく生きるため、そのように生きるよう、生きられるよう、主イエスは罪の代価を十字架で支払ってくださったのである。他の人との関係において、相手に不信や不安を抱くことなく、反対に不信や不安を抱かせることなく生きること、恐れや苦悩を与えずまた抱かず、心を開いて他の人と接することが、聖徒たちには可能とされている。それゆえ「だれに対しても、何の借りもあってはなりません」と勧められ、命じられるのである。

 「ただし、互いに愛し合うことについては別です」と言葉が続く。互いに愛し合うことについては、「借り」があってもよいと言われている。金銭はもちろん、心のわだかまりのような「借り」は、人と人の交わりを壊すもの、しかし、互いに愛し合うことにおける「借り」は、交わりを壊すものではなく、愛の交わりを一層深めさせてくれるもの・・・・というのである。キリストによって示された「愛」は無限であり、「愛」は支払い不能の「借り」、もし「負債」と言うなら、この「負債」を身に負うことによって、人は愛されることを学び、愛することを学ぶのである。こうして、聖徒たちは「他の人を愛する者」となり、律法を守る者と変えられる。誰が「隣人」であるかを意識せず、傍にいる「他の人を愛する」こと、この「愛」が求められているのである。
3、パウロは、キリストにある者たちがこの世で生きるとき、やはり行き着くのは「互いに愛し合う」こと、律法を全うすることにあると確信していた。神を愛し、神を恐れるのはもちろんのこと、しかし、この世で生きる聖徒たちには、互いに愛し合うことが最重要!と考えた。(9節) 十戒に示された神のみ旨、そして主イエスが大切な戒めとして示された教えが、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」であった。(レビ19:18、マタイ22:34〜40)十戒の後半がこの教えに要約されている。個々の戒めを守れたと勝手に誇る者に、本当は「愛せよ」こそが命じられているというのである。

 「愛は隣人に対して害を与えません。それゆえ、愛は律法を全うします。」(10節)愛をもって他の人に接するとき、決して傷つけることはない。敵意や悪意はどこかに追いやられ、善意や親切が溢れる。それゆえ、愛においての貸し借りは無限に広がる。誰もが損得を意識することなく、交わりに愛が満ち溢れるとき、「愛は律法を全うします」と言われる。そこに愛が満ち溢れ、充満するというのである。(コロサイ3:12〜14、ペテロ第ー4:8)神からの愛、無償の愛、無限の愛、赦す愛、包む愛、人を生かす愛・・・・、それは見返りを求めない愛ゆえに、貸しにも借りにもならないもの・・・・というのであろう。

<結び> 私たちは改めて、互いに愛し合うことを世にあって追い求めるよう教えられる。この世にあって、私たちを取り巻く一切の人間関係が、キリストの愛によって整えられるなら、きっと多くの事柄が変化を見せるに違いない。愛は他の人に要求するものではなく、神に愛された者として、自分から他の人に向けて発すべきものである。人から愛されたとしても、借りを返すかのよう愛するのではなく、神に愛されていることを感謝するからこそ、互いに愛し合うのである。家庭に、そして教会に神の愛が満ちることが、私たちが愛に満ち溢れる通り道に違いない。

 それにしても、今時代は、愛の冷えた悲しい時代となってしまった。愛が冷えたのか、愛を見失ったのか、はたまた人間にはもともと愛は無いのか・・・・。悲しい事件が後を絶たず、痛ましいばかりである。こんな時代に、主が私たちを生かして下さっているのは、互いに愛し合うことを発信せよ!と期待しておられるからであろう。愛を証しするため、私たちは世に送り出されている。その役割を果たせないなら、主イエスの警告を聞かねばならない。「あなたがたは、地の塩です。もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。」(マタイ5:13)心して愛を証しする歩みが導かれるよう祈りたい。