礼拝説教要旨(2006.11 05)



神によらない権威はなく (ローマ 13:1〜7)
キリストの十字架のみ業は、キリストを信じる私たちにたましいの救いを与えて下さるものである。救いは、恵みのゆえ、信仰により、値なしの賜物として与えられる。救いに与かった者は、感謝と喜びをもって主に仕え、人々にも仕えて生きる者と変えられる。パウロは、聖徒とされた者のこの世での生き方について、先ず神を仰ぐ者として、教会の交わりはもとより、世の人々との関わりにおいても、神の愛に生きるようにと勧めた。たましいの救い、究極の救いの完成を待ち望む者にとって、この世では恐れなく神に信頼して歩めるという、絶対的安心、神からの平安があるからである。しかし、聖徒たちは世から選び分かたれた者であっても、世にあって生きるよう、世に遣わされている。そこでパウロは、聖徒たちが世にあって生きる責任と義務について語る。クリスチャンとして社会的責任を如何に果たすのか、これはいつの時代、どこの国にあっても、とても大切な課題だからである。
1、ローマは当時の世界の中心地であった。ローマ帝国の支配が地中海沿岸に広がり、全ての道はローマに通じるがごとく、人々はローマの支配と無縁ではいられなかった。そうした状況下で聖徒たちは、世の者であって世の者でない・・・・という経験をしていた。この世の支配を最早恐れないとしても、この世の支配とどのように関わるのか、一人一人問われていた。悪に悪を報いず、善をもって悪に打ち勝つため如何になすべきか、日々問われた。そこでパウロは、「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです」と語った。(1節)全ての人にとって、この世の統治の仕組みは神からのものと告げたのである。
「上に立つ権威」とは誰のこと、皇帝のことか・・・・。特定の権力者のことではなく、統治の仕組みや制度と考えるのが妥当である。法の定めに基づく職務があって、その職務を果たす限りにおいて、その役職者に権威が付与されている。ローマの統治下にあるなら、その支配の下にあることを認め、法の定めに従うことを潔しとすることを欠いてはならない。国や地方、また身近な団体であっても、神がその仕組みや制度の存在を許しておられる事実を、先ず認めること、そのことをパウロは語るのである。その事実を無視することは、神ご自身に背くことになる。「したがって、権威に逆らっている人は、神の定めにそむいているのです。そむいた人は自分にさばきを招きます。」(2節)
2、神が立てられた権威は、様々な形で人々の生活に関わってくる。国家権力は、法律などによって、その支配を国中に行き巡らせている。職場などの人の集まりにおいても、やはり統治や支配の仕組みは存在し、そこでどのように生きるかが問われるのである。主にある聖徒たちにとっては、どこにあっても良い行いが求められている。あくまでも自分から進んで、善を行うか否かである。強いられてではなく、進んで行う善こそが、聖徒たちの踏むべき道である。支配者を徒に恐れるのか、それとも「神のしもべ」と見るのか、その捉え方一つで、進む道が全く違ってくるのである。(3〜5節)
当時のローマの支配者たちは、政治にも経済にも、また治安の維持などにも、絶大な権力を行使していた。その力の大きさに人々は怯える程だったのであろう。しかし主にある聖徒たちは、支配者たちとの対立や対決ではなく、自発的な善行と服従を心掛けること、このことを果たすように命じられている。国家が支配者として「剣を帯び」ているのは、神が国家にその権威を託されたことのゆえである。(※「剣」は、「軍事力」より「警察力」と考えられる。)神を信じ、神に従うゆえに、神が立てられた権威にも心から信頼し、従うことが導かれるなら、それは聖徒たちにとって、何よりの幸いである。
3、パウロは更に、「みつぎ」と「税」を納めるよう命じた。収穫の一部などを貢として納めること、間接税として金品を納めること、どちらも納める者にとっては、不平や不満は尽きないものである。常に重税感が蔓延し、非ローマ市民にとっては、怒りや恨みさえ抱かせるものであった。しかし、納めるべきは納め、恐るべきは恐れ、敬うべきはう敬うように、パウロは勧めた。主の民は、この世にあって潔く生きるべし!と。徒に不平を漏らすより、公の努めを果たす者に敬意を払うことにおいても、潔い者となるよう勧めている。(6〜7節)
「あなたがたは、だれにでも義務を果たしなさい。」(7節)「だれにでも」と言うことによって、義務を果たすことには、より積極的であるよう、特に社会的な責任を果たすことに、クリスチャンは決して躊躇うことのないよう勧められている。実際に世の常識は、逃れられるものは何としても、節税は当り前、脱税さえまかり通る有様である。個人の納税意識が問われている。(脱税事件、年金未納問題、粉飾決算等など)この世で生きることの全領域に、神の支配が及んでいると知ることが大切である。「神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。」(1節)
<結び> 「悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい」との勧めに続いて、13章1節が語られるのは、この世の社会におけるクリスチャンの責任を意識させるためである。上に立つ権威の良し悪しは、今日も大いに気になるものである。良いものなら当然、「従いたい」との思いが増し、他方、悪しきものなら、「決して従いたくない」と思うものである。けれども私たちが良し悪しを判断するのではなく、先ず「神によらない権威はなく」との事実を覚えるよう、み言葉は語る。もちろんこの世の権威が、神のみ旨に反することを強要する時、私たちはそれに抵抗することが許される。その時、神に従うのか、人に従うのか、どちらが正しいのか、自ら判断しなければならない。(※使徒4:19、5:29)
日本の教会はかつて、「上に立つ権威」を無批判に「天皇」と結びつけ、これに従うことを当然とする過ちを犯した。キリストに従うことと天皇を敬うことを並列させるか、天皇の下にキリストを据えるかのようにして、戦時下を生き延びようとした。この世の制度や統治の仕組みを尊ぶとしても、再び過ちに陥ることなく、世に対する責任を確かに果たす信仰者とならせていただきたい。日頃の自覚が大切であろう。与えられた責任を、どこにあっても進んで果たすことが大事である。教会で、家庭で、職場や地域で、一人一人大いに期待されている。人からというより、主が期待しておられる。社会における証しを通しても、主のみ栄えは必ず現される。心して歩ませていただきたいものである。