礼拝説教要旨(2006.10 29)  
善をもって悪に打ち勝ちなさい                       (ローマ 12:17〜21)

 パウロは、キリストを信じて罪を赦され、たましいの救いに与かったローマの聖徒たちに、この世にあって実際に生きる道を説いていた。(12章より)何よりも神礼拝に生きるように、そして、教会の交わりの中で互いに仕える者として生きるようにと。大切なことは、真実な愛に生きること、それゆえ「愛には偽りがあってはなりません」と明言した。パウロは、神の愛に触れた者こそ神の愛に生きることができると信じて語ったが、同時に人の心はなお頑なで、愛の対象を狭めようとする傾向に気づいていた。そこで教会外の人々をも愛することを命じ、教会の内外を問わず、いよいよ心を低くして生きるよう勧めるのである。けれども愛に生きることについては、なお語る必要があった。

1、「だれに対してでも、悪に悪を報いることをせず、すべての人が良いと思うことを図りなさい。」(17節)自分に敵対する者に心を開くのは、誰であっても至難のこと、直接の害が及ぼうものなら、とても我慢はできない。直ちに報復したい・・・・と考えるのが普通である。しかし、それが常識、当り前であっても、主イエスご自身が報復を禁じておられる。「・・・・悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。・・・・」(マタイ5:38〜42) キリストにある者、主に従う者の果たすべきは、悪ではなく善であり、良いことである。ただ単に「すべての人が良いと思うこと」ではなく、神と人の前に、いつも善を成すことが求められているのである。

 危害を加える者をそのままにしておいてよいのか。また悪を野放しにしてよいとは思えない。誰もが悪に対しては厳しく対処し、悪者は放逐すべし!と言うであろう。この世から悪しき者を除き去るのが「正義」とばかり・・・・。しかし、「あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。」パウロはこう語った。(18節)自分の側では、可能な限り、全ての人と平和を保つことを心掛けること、努力することを命じている。相手が変われば・・・・と考え易い。しかし、自らの態度が肝心である。自分から進んで平和をつくる者が「神の子どもと呼ばれるから」である。(マタイ5:9)

2、更に、聖書のみ言葉を根拠に、「自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい」と語っている。(19節)「愛する者たち」と呼びかけ、これが結論ですとばかり・・・・。(※申命記32:35) 危害を受けたなら、誰もが悲しみや痛みとともに、怒りや憤りを覚える。けれども「その怒り」は神の怒りに任せることが大事であると。(※「その怒りに場所を与えよ」:その怒りは、人の怒りではなく、「神の怒り」と解すべきである。)罪と悪に真に怒っておられる方にこそ、全てを任せなさい、神にこそ信頼して、落ち着くこと、それが聖徒たちの成すべきことである。しかし人は、自分で解決したいものである。今この時に立ち上がらないで、後で何をしようとするのかと、怒りを燃やしてしまうものである。

 「もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。渇いたなら、飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです。」(20節)敵に対して、あくまでも善を行い、困窮するなら助けの手を差し出す。これが神の愛に生きる者の道である。敵意や憎悪に対してさえ愛をもって接することは、相手の心を逆なですることになるかもしれない。それでも愛を示すことによって、敵の心(たましい)に訴えること、心に痛みを感じさせることが大事なのである。(※箴言25:21〜22)

3、私たちは、このみ言葉の勧めを聞いて、そのように生きることができるだろうか。何事があっても愛に生きることができるだろうか。敵対する者を赦し、受け入れることは可能なのだろうか。(※北朝鮮問題は、今主が私たちに問うておられることである。)「悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。」(21節)パウロは、これが主イエスの教えであると命じた。誰もが力には力で、悪には悪をもってしても・・・・と言い張る時に、それでも「善をもって悪に打ち勝ちなさい」というのが、主イエスの示しておられる道である。

 私たちは主イエスに従う者である。それならば、その教えに聞き従い、その通りに歩むべきである。それなのに「それは理想である。現実はそうはいかない」と言い逃れる。悪に負けず、悪に打ち勝つことにおいて、現実は極めて深刻である。個人のレベルではどうだろうか。家族や集団の問題ではどうであろうか。ある程度の自制が効くこともあれば、そうは行かないことも多い。国と国のことになると、残念ながら、たちまち一触即発の状態となってしまうのである。主イエスの教えは、教会の中の問題だけに留まらず、この世のあらゆる事柄に及ぶもの、愛に生きることは、あらゆる領域で問われているのである。

<結び> 「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。  前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」これは「日本国憲法」の第二章第九条戦争の放棄の条文である。神の不思議な摂理のみ業によって、主イエスの教えを国の憲法に謳った、世界に誇れるものである。(どこの国も「真理」はこれと知っていながら、口を閉ざしていることの表明と言えるもの! 世界で戦争放棄を定めたのは日本とコスタリカ、定めた通り軍隊のないのはコスタリカのみ。※日本は自衛隊が軍備を備えている。)

 今、この憲法を改正しようと政府と国会が動き出している。北朝鮮問題が後押しするかのように、勇ましい意見が飛び交い、不安を煽り立てている。決して惑わされないように注意が必要である。他方、私たちは主の教えを聞いて、またパウロの勧めを知って安心していてはならない。心に留めているのでは不十分である。教えを生きること、聞き従うことがないなら、私たちの信仰は空しいものとなる。神の愛に生きる人が必要とされているからである。愛の教えを実践することについて、真心からの祈りをささげ、確かに愛に生きる者としていただきたい。周りの人々と違っていたとしても、み言葉に従うことが、私たちの願いである。「悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。」この教えを心に刻んで、今この時代にあって、主に支えられ、導かれて生きる者としていただきたい。