礼拝説教要旨(2006.10 15)  
喜びも悲しみも共にする交わり  (ローマ 12:14〜16)

 弟子たちに対する主イエスの戒めは、「互いに愛し合いなさい」であった。パウロも「兄弟愛をもって互いに愛し合いなさい」と勧め、「愛には偽りがあってはなりません」と語り、教会が「神の家族」の交わりとなるよう励まし続けた。愛に生きるには、主によって心を燃やされ、主ご自身にこそ仕えること、救いの完成をしっかりと望み見て、困難にも立ち向かい、祈り続け、他の人の貧しさを自分のこととして受け留めよ、心して愛の実践を追い求めよ、と勧めるのであった。

1、パウロは更に言葉を続けた。「あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。祝福すべきであって、のろってはいけません。」(14節)愛の対象は教会の中に留まらず、教会の外の「敵」にさえ及ぶ・・・・と。ローマの聖徒たちは、驚きと戸惑いをもって、この教えを聞いたに違いない。「互いに愛し合いなさい」とは、当然のように、身近な者たちの間でのこと、互いに分かり合える仲間内の課題と考えるからである。けれども、主イエスが「・・・・自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。・・・・自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう。・・・・」と語っておられた。(マタイ5:43〜48)

 主イエスは、「天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです」(5:45)と言い切っておられる。だからこそ「迫害する者」に対して、「祝福すべきであって、呪ってはいけません」と、パウロも語るのである。実際に敵対する者にやさしい言葉をかけるのは難しい。厳しい言葉を投げかけ、呪うこと、滅びることを願うのは容易い。やさしい言葉をかけようものなら、必ずつけあがると警戒するからである。しかし、この世の常識では極めて難しいことを、主イエスは語り、パウロも語っている。罪を赦され主イエスの救いに与かった者たちは、主の愛を受けた者として歩みなさいと。赦された者が他の人にどのように接するか、そのことが問われるのである。

2、愛の対象は教会の外の敵にまで及ぶことを告げた後、パウロは、また教会における愛の交わりについて語る。「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。」(15節)これは教会の内外を問わず、そのようにすべきであるものの、先ず教会の中でそのように生きるよう命じられている。実際には、非常に難しく、私たちは無力さを思い知らされる。しかし「喜ぶ者と共によろこび、泣く者と共になけ」(文語訳)と命じられている。パウロは強い調子で命じている。(※通常の命令形より強い話法で)教会の交わりが真の交わりとなるかを問い、互いに心を開いて、互いを必要とする交わりへと進むよう励ますのである。

 私たちは、これは素晴らしい教えであると納得すると同時に、難しい!実行不可能!!とも思い知らされる。共に喜ぶことも、共に泣くことも、私には難しい・・・・と。では何故、そのような難しい教えが語られるのだろうか。ただ努力目標としてだけの教えなのだろうか。そうではない筈である。できないことが求められているのではなく、主にあって、聖霊の働きによってできることとして求められている。み霊によって生まれ変わり、造り変えられた者の集まりである教会だからこそ、そのような交わりを目指すように勧められているのである。諦めることなく前進することを。もし、目指すことを諦め、私たちには無理と決め付けるなら、その時、教会は教会ではなくなるのであろう。
3、「互いに一つ心になり、高ぶった思いを持たず、かえって身分の低い者に順応しなさい。自分こそ知者だなどと思ってはいけません。」(16節)愛の交わりの実現のため、一人一人がどのように考え、どのように行動すべきか、パウロはその指針を示している。心を一つにするには、高ぶった思いを決して抱かないことである。自分だけが知っている、分かっている、悟っている等など、ついつい高慢に陥り易い性質を持ち合わせている私たちである。「身分の低い者」に合わせること、それは主イエスが人となられたことに明らかにされている事柄である。低くなること、低くされること、これこそ主にある者が習うべき道である。(ピリピ2:1以下)

 この世の価値観は、低くなることではなく、どこまでも高くなることをよしとする。より高く、より優れた者となることをひたすら求め、その結果、人を退け、蹴落とし、他を思いやる心を失うのである。パウロは主イエスの十字架のみ業を知っている者は、主が歩まれたように歩むように、主が低くなられたように、私たちも心を低くして、一つ心にならせていただこうではないか、と語りかけていた。主ご自身が、弟子たちにそのように歩むよう命じておられる。「あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、あなたがたのしもべになりなさい。人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のため、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。」(マタイ20:27〜28)

<結び> それにしても「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣く」のは難しい。これが私たちの実感かもしれない。けれども、する、しない、できる、できないとは無関係に、「教会は喜びも悲しみも共にする交わりである」ことを、パウロは教えようとした・・・・と考えられる。実際に私たちも、その自覚をもって教会に連なることが大切である。喜びにしても、悲しみにしても、全てを明らかにして、互いに心を一つにしようとするのはためらうことがある。遠慮してしまうのである。なかなか分かってもらえないだろう・・、迷惑ではないか・・との思いが働いて。

 先日(11日)光の園の亀倉さんが「福祉の現場から」話してくださったことに、聖書のメッセージが沢山込められていた。障害者の施設で働くこと、また障害者を理解することのポイントを5つ挙げられた。@障害はその人の一部:その人の全体をを理解することが大事で、その人と謙虚にお付き合いすること。Aはったりは効かない:周りにいる人は、その人自身が問われる。Bお互いさま:家族は支え合って生きている。また施設はその人に支えられて仕事ができている。そのことに気づくこと、それを思い返すこと。C自分の役割を知る:施設ごとに役割が違う。それぞれの役割を果たすことが肝心となる。D障害者福祉の理念=ノーマライゼーション:当たり前の普通の生活ができるように支援すること。誰もが生まれ育ったところで生活したい!

 教会で神の家族として交わりを可能とするのに同じことが言える。互いを理解し、謙虚にされて生きるところ、それが教会である。私たちは、心の中をご覧になる神の前に生きている。互いに支え合って生きていることは、教会がキリストのからだであることによって、繰り返し教えられている。そして、各々の分を果たすのが教会である。教会でこそ当たり前に、自分を飾ることなく主の前に出て、互いに支え合う交わりが導かれるよう、心から祈りたいものである。喜びも悲しみも共にする確かな交わりが導かれるように!