礼拝説教要旨(2006.10 08)



望みを抱いて喜び (ローマ 12:11〜13)
主イエスは、弟子たちに「互いに愛し合いなさい」と命じておられた。パウロはその戒めを受けて、「兄弟愛をもって互いに愛し合いなさい」と勧めた。キリストにある者とって、教会の交わりは「神の家族」の交わりであり、そこで「神の愛」に生きることが、この世にあって「愛」に生きる力の源となるからである。けれども、「愛に生きる」「愛をもって生きる」と、言うことはできても、現実に「生きること」において、誰もが様々な困難に直面するものである。そこでパウロは、励ましを込めて語り続けた。
1、「勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい。」(11節)人の感情は熱し易く、また冷め易い。教会の中においても、ある時は熱心に奉仕し、ある時はやや冷めている・・・・ということが起こり得る。だからこそ、愛に生きることにおいては、勤勉であること、怠ける心を起こさず、霊に燃やされ、主に仕えなさいと、パウロは命じている。(※口語訳:「熱心で、うむことなく」)聖霊によって燃やされた熱心をもって、主に仕えることを怠らないこと、それが教会の中で愛に生きるカギである。主に仕えることを見失う時、熱意は冷め、愛が冷えてしまうことを、警告として語っている。
主に仕えることを見失わない限り、聖徒たちの熱心の火は燃やし続けられる。熱し易く冷め易い感情が、主によって燃やされるからである。そして、主が約束された救いの完成をいささかも疑うことのない、「望みを抱いて喜び、患難に耐え」る信仰が導かれる。救いの完成の日、キリストにある者は栄光のからだに変えられ、神の子として神の富を受け継ぐのである。この望みこそ、まことの望みである。この世のはかない望みとは比べものにならない、確かな望みである。この望みを頂いているからこそ、喜びをもって患難に耐え、絶えず祈りに励みなさいと勧められている。(12節)
2、マーティン・ルーサー・キング牧師が、「私には夢がある・・・・」と演説したことが知られている。人種差別という大きな痛みを抱えたアメリカ社会にあって、いつの日か黒人と白人が同じバスに乗り合わせる日が来る・・・・と語り、これをきっかけに、公民権運動はいよいよ盛り上がった。「夢」は「望み」と言い換えることができる。人は「希望」によって、大いに勇気付けられるのである。キング牧師は、地上で夢の実現を望み見ただけでなく、恐らく、天のみ国での救いの完成を望み見たからこそ、「私には夢がある」と語り得たのであろう。神の正義と公正が必ず成る時が来る・・・・と。確かな「望み」に生きる時、患難に耐える道が開かれる。望みを抱いて、患難をも耐え忍び、祈り続けることが可能となるのである。
キング牧師の演説が、なぜ人々の心を動かしたのか。その理由は、「望みを抱いて喜び、患難に耐え、絶えず祈りに励む」キング牧師の姿を人々が見ていたからであろう。神の愛に触れた者が、神の愛に押し出されて愛に生きる、その証しがあったのである。1960年代の公民権運動には、キング牧師のように「非暴力」を説くものだけでなく、暴力的な力による運動もあった。現にキング牧師は銃弾に倒れるという悲劇があった。私たちが学ぶべきは、神を愛し、互いに愛し合うからこそ、確かな望みを抱いて喜び、時には患難さえいとわず、神の解決と助けを祈り続ける者となることである。決して力による解決を急がず、愛が全てを包むのを待ち望むのである。
3、パウロは愛の実践に関して、具体例を挙げる。「聖徒の入用に協力し、旅人をもてなしなさい。」(13節)ローマという当時の世界の中心地にある教会にとって、人の交流は思いの他盛んだったと想像できる。聖徒の交わりの広がりは、様々な助け合いの必要を生じさせていた。折々に具体的な援助を進んで行うよう、また旅人を快くもてなすようにと勧められている。(※口語訳:「貧しい聖徒を助け、努めて旅人をもてなしなさい。」 ※新共同訳:「聖なる者たちの貧しさを自分のものとして彼らを助け、旅人をもてなすよう努めなさい。」)他の人の貧しさをどれだけ自分のものとして受け留め、行為に表すことができるかが問われていた。
主イエスが語られた金持ちと貧乏人ラザロの例え話で、金持ちは毎日ラザロを見ていた筈にも拘わらず、何一つ助けの手を差し伸べなかったことが、実は大問題と指摘される。(ルカ16:19〜21) 「聖徒の入用に協力し」とは、困難にある人にどれだけ目を注ぎ、手を差し伸べるか、その心遣いを教えている。愛は具体的な行動を起こさせるものなのである。もし何の行動も伴わないとしたら、その人の生き方には「愛がない」ことになる。それ程極端に、また真実に事を受け留めねばならない。私たちは、旅人をもてなすことに留まらず、「もてなし」がどれだけ大切であるか、心したいものである。
<結び> 初代教会において、旅人をもてなすことは愛の行為として特別なものとされていた。巡回の伝道者や旅行中の聖徒をもてなすことは、キリストにある者にとって、神からの祝福に与かる特権であった。(※それを逆手に取って、家々を渡り歩く不届き者もいた。テサロニケ第ニ3:10〜12、テモテ第ー5:11〜13、テモテ第ニ3:5〜6a)今日、この文字通りの状況が目の前に迫ることは余りない。それだけに私たちは、心して愛の実践を祈り求めることが大切となる。その実践を可能にするために、「望みを抱いて喜び、患難に耐え、絶えず祈りに励みなさい」と命じられているのである。
私たちは今一度、救いの完成を、確かに望みとして望み見て日々歩ませていただこう。パウロは、「御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだが贖われることを待ち望んでいます。私たちは、この望みによって救われているのです」(8:23〜24)と語っていた。この滅ぶべきからだが贖われること、救いが完成して神の栄光に迎え入れられることが、どれ程の幸いであるか、心に留めようではないか。今ある困難や苦難は取るに足りないことを知り、これに耐え、神のみ業が成ることを信じて祈り続ける者とならせていただきたい。