礼拝説教要旨(2006.09 24)  
兄弟愛をもって      (ローマ 12:9〜10 ※朗読9〜21節)

 キリストにある者、クリスチャンのこの世での生活は、先ず何よりもキリストのからだである教会の一員として生きることを通して養われる、これが使徒パウロの確信であった。「ひとりひとり互いに器官なのです」とは、「互いにそれぞれのための器官なのです」という意味を知って、だからこそ自分に与えられている賜物を、自分のためにではなく、互いに仕えるため、神にささげることが求められているのである。このことが実践されるため、神は教会に連なる一人一人に「愛」を注いで下さっている。「神の愛」、「キリストの愛」、この「愛」が教会に満ちる時、教会は世にあって確かに輝くのである。

1、そこでパウロは、「愛には偽りがあってはなりません」と警告した。(9節) 神が与えて下さった「愛」、一人一人に既に注いで下さった「愛」を決して損なうことなく、真実なものとして表しなさいと。もし偽りがあるなら、愛の共同体である教会が、偽りのもの、見かけだけのものとなりかねない。パウロはその危険性を知っていた。コリントの教会の聖徒たちには、どんなに賜物が与えられていても、また確固とした信仰があっても、そして財産の全てを施し、殉教の死を遂げたとしても、愛がないなら、何の値打ちもない、何の役にも立たないと言い切っている。神から注がれた「愛」が活き活きと表され、聖徒たちが愛に生きるところ、それが教会だからである。(コリント第ー13:1〜)

 「偽り」となるワナ、それは「愛」が表面を繕う演技や、うわべの言葉だけのものとなる時に生じる。表面的に演じることから「偽善」が生れる。主イエスが忌み嫌われた「偽善」はこの点にあった。祈りも施しも、もしうわべだけのものなら、どんな熱心も「偽善」と退けておられた。教会の交わりがうわべだけのものなら、どれだけ空しいものであろうか。何よりも、教会のかしらであられる主が悲しまれることである。だからパウロは、「偽り」のない「真実な愛」を勧めるのである。

2、真実の愛と偽りの愛を見分けるのに、パウロは「悪を憎み、善に親しみなさい」との教えを加えている。善と悪を見分け、どのように対するか、そこに真実が明らかになるからである。「悪を憎む」ことにおいて、生まれながらの人間はためらうことがある。悪にひかれるからである。そのため「善に親しむ」ことにおいてためらうのである。悪にも善にも等距離を保つかのように、結局のところ、悪を憎むことも、善に親しむこともせず、通り過ぎるのである。良きサマリヤ人のたとえ話の「祭司」や「レビ人」のように。(ルカ10:31、32)大切なことは、明確な態度を示すことである。悪を憎み退けるとともに、善に対しては、困難があっても、これを確立する意志と行動が求められるのである。

 但し、悪を憎むことと悪人を憎むことが重なり、また、善に親しむことと善人に親しむことが重なることには注意が必要である。本質的、また究極的な意味では「善人と悪人」の区別はなく、全ての人は「悪人」、すなわち「罪人」である。それゆえ私たち人間には、誰かを悪人として憎むことは許されてはいない。主イエスが、「自分の敵を赦し、迫害する者のために祈りなさい」と命じておられる通りである。(マタイ5:44) 主が愛しておられる人を、私たちが勝手に悪人と決め付けることがあってはならない。反対に主が退けておられる人を、勝手に善人として持ち上げてはならないのである。(※もちろん誰を退けておられるかは分からない!)

3、主イエスは、最後の晩餐の席で「互いに愛し合いなさい」と弟子たちに命じられた。新しい戒めとして、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」と。(ヨハネ13:34)この戒めを受けて、パウロも「兄弟愛をもって心から互いに愛し合い、尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい」と命じる。(10節)教会の中では、一人一人が互いに家族であると認め合うことを教えている。パウロは、フィレオーという肉親や友人を愛する時に使う動詞がもとになる言葉=フィラデルフィア=を用いているが、神の愛=アガペー=を受けた者として、互いに愛する=フィレオー=ことをいよいよ示しなさいと勧めている。教会が確かに神の家族となることが期待されているからである。(エペソ2:19)

 私たちは互いに「兄弟姉妹」と呼び合っている。これが形式的なものであるなら、直ちに止めるべきであろう。(※初めて教会でこの言葉を耳にした時、とても違和感があった。堅苦しさがあり、呼ばれたくないなーと感じた。今でも、そう呼ぶからには真実に呼び合いたいと、心から願っている。)実際には、全時間を共にする交わりではないので、「家族」と実感するのが難しいのも事実である。けれども、教会の本質は、主にあって「家族」であることを心から認めること、互いの愛が、家族の愛、兄弟の愛にまで深められ、高められることを目指すよう勧められているのである。

<結び> 私たちの教会の交わりは、主のみ心に叶っているだろうか。主のみ教えやパウロの勧めを聞いて、それに従っているだろうか。しばしば頭では理解しても、実際の生活はなかなかついて行けない私たちである。しかし、何とかして神によしとしていただきたいものである。「兄弟愛をもって心から互いに愛し合う」群れと成らせていただきたい。神によって変えられることを潔しとし、心を開き、互いの重荷も負い合うまで導かれるなら、何と幸いであろうか。

 「尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい」と言われていることは、ピリピ2:3で語られていることと同じである。「何事も自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりすぐれた者と思いなさい。」尊敬することにおいては、互いに先立ってそうしなさい、すなわち、人から尊敬されるのを待つのではなく、自分から進んで人を尊敬しなさい。そうする時、互いに尊敬し合う交わりが生まれるというのである。互いに尊敬するところを見出す時、互いに愛し合う交わりが確かな現実となるのである。

 世の人々に対する教会の証しを追い求める時、この世の慣わしに影響され、何事かを成し遂げることを通して証ししようとすることが多い。しかし、主イエスは「もし互いの間に愛があるなら、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです」と言われた。(ヨハネ13:35)教会はこの証しを立てて今日に至っている。私たちも「兄弟愛をもって心から互いに愛し合う」教会として、この時代に、この地で証しさせていただきたい!!